作品の閲覧

「800字文学館」

新元号と万葉集

大月 和彦

 新元号に決まった「令和」は、中国の古典からでなく史上初めて「国書」万葉集に拠ったことが話題になっている。「わが国の悠久の歴史、香り高き文化、そして四季折々の美しい自然などを次の時代へと引き継いでいくべき」で、中国の古典にとらわれる必要はないという首相の考えが生かされたといわれる。

 万葉集は八世紀前半ごろまでの350年間に作られた4500余首が収められているわが国最古の歌集。大伴家持の編集とされている。天皇、皇族、政府高官、宮廷歌人のほか防人歌や東歌などに見られる農民・庶民の豊かな人間性や感動を率直に表す歌が多い。全文万葉仮名という漢字で綴られている。

 「令和」は、万葉集巻五中歌番号815から846までの梅の花を詠んだ32首を束ねた序文から引用されている。

 天平年間のある年の正月、唐、新羅など大陸との交流と国防の拠点として設けられていた役所、大宰府の長官大伴旅人の邸宅で、梅見の宴が開かれた。旅人をはじめ筑前守山上憶良や筑後守、壱岐守など高官が参加した宴で、梅の花を詠んだ。このときの状況を漢文で綴ったのが序文である。作者は万葉集に多数の歌が所載されている旅人か憶良とされている。

 梅は中国から渡来したばかりで、舶来の花として当時珍重され、歌人たちに詠われるようになっていた。梅が最初に移入されたと思われる場所大宰府で、梅見の宴が開かれたのは中国文化へのあこがれと尊敬があったからだろう。

 引用された原文は、序詞「梅花歌卅二首并序」に続く「…于時、初春令月、気叔風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香…」で、「…時に、初春の令月にして、気叔(よ)く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮(はい)後の香を薫らす…」と読まれている。

 遣唐使を務めたことがある旅人や優れた漢詩を残している憶良は、中国文化に深く通じていた知識人だった。万葉集をはじめ仏教、技術、中国で創られた元号制度など当時の文物すべてが舶来ものであり、中国の影響を受けていたのだ。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧