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「800字文学館」

ラビリンス(ラビラント)

池田 隆

 ラビリンスは機械部品として、元タービン技術者の私には非常に馴染みが深い。回転部と静止部の隙間に刃先を何列も並べて複雑な通路をつくり、漏れを減らす仕組みである。効率を上げるにはタービン翼に次ぐ重要な部位で、失敗しながらも色々と工夫したことを思い出す。
 語句「ラビリンス」が一般的には「迷路、迷宮」を意味することは辞書で承知していた。定年後に観光でクレタ島を訪れ、その語源となったクノッソス宮殿を見た時の感動は忘れられない。考古学者エバンスがギリシャ神話のミノス王をヒントに、オリーブ畑の地中から発見したミノア古代文明の遺跡である。
 百数十メートル四方の宮殿は複雑に入り組んだ二千以上の小部屋に分かれている。現在は屋根や天井が崩れ落ち、上から全体を見渡せるが、往時は一度入ったら出ることの出来ない迷宮であった。王が牛頭人体の怪物を閉じ込めるために名工ダイダロスに命じて造らせたという。
 先日、永井荷風が「墨東綺譚」で寺島町玉ノ井の私娼街を「ラビラント」、迷宮と呼んでいることを知った。彼が其処を憩いの隠れ場所としていた昭和十一年頃は、ドブの異臭が漂い、蚊が飛び回る不潔な地区だった。しかも複雑に入り組んだ狭い路地に毎夜数千人の客が訪れ、一旦中に入ると各娼家の格子窓に気を取られ、誰もが方向感覚を失ったという。尤も当時の絵を見ると今の新宿ゴールデン街よりはかなり情緒がある。
 戦災で一面焼け野原となったというが、現在はどの様になっているのだろうか。探訪に出掛けてみる。町名が「東向島」に、玉ノ井駅が東向島駅に、街並みは清潔な風情の下町横丁に変っていた。ただ道筋だけは律儀なほどに当時の地図通りで、「ラビラント」と呼ばれた狭い路地網も残っている。好奇心からその路地に入り、漏洩気体や荷風になった積りで右や左と抜けてみる。出会う人とていない。つぎに同じルートを逆向きに戻ってみたが、迷うこともない。「ラビラント」の機能は失せていた。

(注) 「ラビリンス」はフランス語発音「ラビラント」の英語表記発音。

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