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「800字文学館」

くさい食べもの

大森 海太

 私が幼かった昭和二十年代前半、東京の街中では食材が乏しかった。今でも地方出身の人たちが、子供のころ口にした畑の作物や山野草の思い出を懐かしく話しているのを聞くと、羨ましいが黙っているしかない。当時のご馳走として記憶に残っているのはせいぜい目玉焼きくらいで、少年になってからの好物といえば、トンカツのへりの脂身とか、めったにありつけないすき焼の鍋に引く牛脂だったのだから、普段はよほど油っ気のないものしか食べていなかったのだろう。

 年月が経ち会社勤めとなり、やがて内外のアチコチに出張に出かけるようになって、いつのまにか匂いの強い食べものを好むようになった。クサヤの干物や鮒ずし、腐乳などに始まって、東南アジアではパクチーやドリアンを覚えた。果物の王様と賞されるドリアンは、タイやインドネシアの道端で一個百円くらいで売られており、雲古のような強烈な匂いとねっとりと濃厚な味で、初めて口にしたときの衝撃は忘れられない。いつだったか夜行便で帰国するときの空港で、愚かにもドリアンを食べたあと酒を飲んだため腹がパンパンに張って、機内でまわりの人に迷惑をかけてしまった。

 老酒で有名な浙江省の紹興に行ったときのこと、三十メートルくらい先の食堂から物凄い異臭が漂ってくる。当地名物の臭豆腐なるものだそうで、要するに油で炒めた豆腐料理であるが、その匂いは昔の田舎のトイレそのものだ。早速注文したところ、同行の諸氏は顔をしかめて手をつけようとせず、ひとり私だけがよせばいいのにお代わりまでした(油のせいかあとで腹具合がおかしくなった)。

 というわけでくさいものには目のない私だが、先月H氏が紹介されたワインの話は初耳であった。ボルドー地方のとある高級白ワイン(ソーヴィニヨンブラン)は、猫の御叱呼の匂いがすると称してフランス人が珍重する逸品だそうで、わが国で手に入るものかどうか知らないけれど、死ぬまでに一度は口にしてみたいものである。

【註】雲古とか御叱呼という用字はご贔屓の開高健のエッセイに使われている。

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