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「800字文学館」

「峨眉山下橋」の漂流―海上の道

大月 和彦

 江戸末期に書かれた鈴木牧之の『北越雪譜』に、越後刈羽郡の椎谷海岸に「峨眉山下橋」の五文字が刻まれた木柱が漂着したことが記されている。
 文政8年の冬、椎谷の漁師が海上に漂う流木を見つけ、拾い上げる。薪にしようと持ち帰り、軒下に干しておくと、通りかかった好事家が流木に「峨眉山下橋」が刻まれているのを見つける。漁師に代わりの薪を与えてこれをもらい受け、近くの住職に見せると、刻まれた文字は唐の詩に出てくる言葉であることがわかり、これを椎谷藩に献上した。
 牧之は流木の実物を見ていないが、当時流布されていた図を同書に載せている。長さ1丈、周囲2尺5寸の流木は、橋の杭らしく、上部に人の頭らしいものが彫られ、下部に5字が刻まれている。
 同じころ近くの国上山五合庵にいた良寛はこの話を聞き、七言詩(*)を詠んだ。

 冬の日本海は波が荒く漂着物が多い。薪炭に乏しい椎谷の人達は漂着物を拾って薪などの燃料にしていた。
 橋杭に刻まれた「峨眉山」は、中国四川省成都の西南200kmにある急崖絶壁の高山で、中国仏教の聖地として知られている。
 この橋杭が洪水などで峨眉山から流れ出したものだとすると、長江の上流域から重慶、三峡を過ぎ江南を流れて東シナ海に出て、さらに北上し越後の海まで、沈むことも破損することもなく流れ着いたことになる。何年かかったのだろうか。海の道は、途方もなくスケールが大きく、ロマンに満ちている。

 この橋杭は柏崎市高柳の名勝貞観園に保存されている。市の中心部から20km南東の山間にある豪農が築造した庭園の建物貞観堂にこの橋杭があった。椎谷藩主に献上された橋杭は江戸に運ばれて評判になったという。後に北越戦争の混乱期に、貞観園の当主が藩主から拝領し、現在に至っているといわれる。
 30年ほど前、地元では良寛の歌碑を作り四川省の峨眉山市に寄贈した。これが縁で同市と地元の中学生の交流が行われていたという。

*「題峨眉山下橋杭」
  不知落成何年代、書法温雅且清新、分明峨眉山下橋、流寄日本椎谷濱

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