作品の閲覧

「800字文学館」

ウィンブルドン

安藤 晃二

 ウィンブルドンはテニスの代名詞、気候の良い夏、世界を沸かせるオープン大会である。70年代英国に三年半滞在した事があり、サリー州で、ウィンブルドンの隣町に住んだものの、観戦したことはない。テニスは大好きであったが、予めチケットを手配できる余裕ある職業環境になかったのも言い訳である。「テレビで結構」で済ませた。あの頃、英国中を熱狂させたのはバージニア・ウェード選手のシングルス優勝であった。私とほゞ同世代、あの上品な風貌である。いまも時々観客として現れる。他にも仙人級の好々爺、ロッド・レーバー、既に老境にあるマッケンローは皆勤賞。先週、カメラがしきりに追う女性、誰あろう「ヒンギスさんです」とキャスターの声、『天才少女』容色衰えず。こんな事もテニスファンの楽しみである。

 英国の夏は摂氏24度が最高気温の相場だが、偶々24度より二三度高い日があった。重量級の秘書の一人が薄いワンピースの裾をたくし上げ、デスクに登り、横座りでへたり込み、書類を団扇に息を切らせている。中国のローズウッドの長椅子が客に涼を提供し、ペットが冷たい床にへばりつくが如く、合理的行動である。翌朝、毛皮のコートの女性がバスを待つ。「この国では何時、何を着ようと自由なの」、秘書嬢の弁。衣更えはこの国には馴染まない。ビールは常温のビター、キュッと冷えたラガーなどと誰も言わない。

 ウィンブルドンには英国に数百もあるコモンの中最も広大なものがある。コモンとは常識的には長方形の原っぱ、公園といった体で、市民が憩い、合議をしたスペースだ。ロンドン郊外の十六世紀チューダー王朝の歴史的事物に囲まれ、パトニーヒース、パトニー・ローワー・コモンを糾合した480ヘクタールの一大自然保護区、ウィンブルドンコモン、その存在感たるや驚きである。人々は長靴・フード姿で湿地や野鳥・植物観察の野歩きを楽しむ。この迫力の前に大テニスクラブの姿も小さな付けたしの様に見えて来る。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧