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「800字文学館」

椎谷藩の陣屋跡

大月 和彦

 『北越雪譜』にある中国の峨眉山から橋杭が漂着したという話の場所、柏崎市椎谷の海岸に行ってみた。市の中心部から海岸沿いに国道をバスで50分、途中東電柏崎刈羽原発を左手に見て北上し、長いトンネルを抜けると、椎谷藩堀氏一万石の陣屋が置かれていた椎谷の町だった。
 街道の両側に背の低い民家が肩を寄せ合って立ち並ぶ。間口が狭く奥行きが長い漁村特有の屋並。海からのしぶきを避けるためか壁には板が打ち付けてある。1㎞足らずの通りには人影が見えない。オレンジ色の看板の郵便局にだけ人の気配がする。

 街並の西側に広がる砂浜は防波堤で囲まれていて、日本海の荒波を直に受けることがなく、今では遠い国から漂着物がこの浜に着くことはない。7月から8月中旬の海水浴シーズンはにぎわうらしく、海辺に海水浴客用の休憩所とトイレが建っている。
 はるか南の方向に、なだらかな山容の峰が浮んでいる。越後の霊峰米山だ。手前に見える赤白のまだら模様の巨大な煙突は東電原発のものらしい。ここから見る日本海に沈む夕日がきれいだという。

 椎谷藩は、藩祖堀直之が大阪の陣での功績が認められて、刈羽郡に所領が与えられ、ここに陣屋を置いた。歴代の藩主は江戸町奉行など幕府の要職に就いていて江戸住まいだったので陣屋は規模が小さかった。
 海が見下ろせる高台に、表門、藩主邸、勤番所、砲術稽古場、馬場などが、一段下の平地には藩庁、武家屋敷、長屋などがあった。北越戦争で激戦の舞台になり,新政府軍の攻撃で陣屋の建物すべてが灰燼に帰した。
 藩は廃藩置県により椎谷県となったもののすぐ柏崎県に、さらに新潟県に統合された。

 街道に沿って発達した宿場町の面影が残る街並に建つ「椎谷陣屋跡」の案内板から小道に入り、坂道を登るとお屋敷と呼ばれる広場一帯が陣屋跡。隅に鳥居と社殿が建っていた。
 陣屋の遺構としては土塁が散見されるだけ。300年近くこの地を支配した役所の跡は荒れた畑地の中にあった。

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