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「800字文学館」

回想の入笠山

新田 由紀子

 入笠山は南アルプスが甲斐駒ヶ岳の先で、諏訪盆地へと峰を低くしたあたりに連なる。八ヶ岳の展望には絶好の山だ。湿原の花も見頃だし、山頂下のヒュッテにでも泊まってのんびりしようと、梅雨明けをとらえて出かけた。
 この山を知ったのは、40年も前学生時代の仲間たちと方々へ出かけていた頃のこと。伊豆の保養所、信州の高原や温泉に行ってはよく食べ、飲んで話し、遊んでいた。そこへ私の兄が、八ヶ岳を正面に望む新興別荘地の話を持ち掛けてきた。兄は建材業をしていたので、話はとんとん拍子に進み、仲間6人の共有名義で山荘が建った。休日には誘い合って、草木を刈り、小道をつけ、レンガを敷いたり、とDIYを楽しみながら囲炉裏のあるリビングと眺めの良いベランダでの別荘ライフを謳歌した。
 ある時、山荘に加わった山好きな兄が、あんた方には八ヶ岳は無理だから入笠山にでも行ってみないかと言うので、車に6人も乗り込み、峰続きの林道をヤアッと走る。脆い路肩に冷や汗をかき、枝道に迷いながらも山の中を走ると、小屋とヒュッテのある湿原に出た。可憐な花が咲き乱れて夢のように美しい所だった。目の先の入笠山は山頂をすっぽりガスに包まれている。お花畑の中を行くハイカーたちが白い靄の中に吸い込まれて行く光景が印象的だった。
 40年ぶりに行ってみた入笠山はシャトルバスとゴンドラが観光客を運び、ソフトクリームの幟が目立つ軽快な高原リゾートになっていた。ヘルメット姿でマウンテンバイクを抱えた若者が闊歩している。その昔、パンパンに乗り込んだ車を走らせた林道には校外学習の団体がひしめいている。
 林道を行けばあの山荘がある。もう誰も訪れていない。あの頃の仲間の輝きとパワーを懐かしく思い出す。共有者が2人だけに減ってしまった今年、山荘の放棄を決めた。湿原の花は変わらずに咲いているが、入笠山に誘ってくれた兄も、ハンドルにしがみついて林道を運転した当時の夫ももういない。

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