渋沢栄一と協調会
ある会合で澁沢栄一の孫娘鮫島純子さんから「祖父栄一から学んだこと」のお話を聞いた。会終了後の懇親会で鮫島さんは、祖父は弱い立場の人への思いやりが強い人で、大正期に起こっていた労働運動に理解を示し、労資融和の団体「協調会」をつくったことや、社会の関心を集めた製糸工場の労働争議では労働者側に同情してアカ呼ばわりされたことなどを話された。数百の会社の設立・運営や経済界の組織つくりに関わった実業家渋沢栄一のもう一つの側面があった。
1918年富山で起こった米騒動は全国的に広がり、同時に労働運動も急進化して労働争議が多発していた。原内閣は労働問題への対策に乗り出し、翌年、渋沢栄一など経済界の協力を得て社会政策推進の民間団体(財)協調会をつくった。会長に貴族院議長の徳川家達、副会長に渋沢栄一らが就任し、社会政策学会の桑田熊蔵、内務官僚の添田敬一郎、経済界から郷誠之助、中島久万吉らが理事として参画した。労働団体の友愛会会長鈴木文治に参加を要請したが拒絶された。
「労資双方が平等な立場に立って、権利を主張するとともに自制互譲を為し…」を標榜してつくられたこの団体は、社会政策の調査研究と政策提言を行うなど協調的労使関係の普及に努めたほか、各地に起こっていた労働争議の調停にも当たった。戦前の最長の争議といわれる野田醤油争議には精力的に調停を行い終結に持ち込んだ。『渋沢栄一伝記資料』には「…野田醤油株式会社ニ争議起リ、既ニ二百余日ニ及ブ。栄一之ヲ憂ヘ、鈴木文治・松岡駒吉ト種々折衝シ、当会常務理事添田敬一郎ヲシテ調停ニ立タシメ、是日(1928・4・18、―筆者注)解決ス」とある。
渋沢の没後、日中戦争が始まると協調会は産業報国運動を提唱するなど戦争協力の姿勢が強くなり、戦後GHQの命令で解散させられた。
今年は協調会結成100年に当たり、7月から港区芝の友愛労働歴史館で「渋沢栄一と鈴木文治・友愛会展」が開かれている。戦前の27年間、労働問題に取り組んだ団体「協調会」の歴史を見ることができる。