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「800字文学館」

冬の海に消えた七〇〇人

稲宮 健一

 八月始め釧路、網走に旅行した。予備知識のため司馬遼太郎の「オホーツク街道」を読むと、昭和十四年十二月十二日の未明に宗谷海峡の近くで大きな海難事故があったと書かれている。戦後この事故の詳しい様子を前田保仁が「冬の海に消えた七〇〇人」と題して本にした。遭難した船はソ連の「インディギルカ号」四二〇〇トンで乗船員合わせて一一六四名が漁労を終え樺太の遥か北のナガイエヴォ港から二千㎞ほど南下して宗谷海峡を横切りナホトカに向かっていた。

 事件は、宗谷岬から二十㎞南、オホーツク海に面した猿払村浜鬼志別の漁民、神源一郎宅に未明突然現れたずぶ濡れの凍り付いたロシア人五人の駆け込みから始まる。神はこの暴風雪で、すぐにトド岩の座礁による遭難と直感で察した。
 夜が明けると、横転した大きな船が見え、船腹には助けを求める人が絶叫を上げ群がり、荒波に一人また一人と飲み込みこまれていった。村には大型の船はなく、直ぐには助けに行きたくても行けない。ノモンハン事件直後にも拘らず、ここから村民の必死の救援活動が始まる。
 稚内警察 道庁、ソ連大使館に連絡が入り、稚泊連絡船(一五〇〇トン)と小回りの効く二隻の小型船による救援が手配された。十三日午前七時ごろ現場に到着、ようやく残った生存者が助けられた。浜鬼志別付近の海岸には遺体が続々漂着した。四三〇人が救援され、七四一人が溺死した。船には最後まで責任のある船員は残り、特に船長ラプーチンは最後まで船を離れなかった。

 遭難現場では地元により殉難の霊を慰める供養が続けられていた。戦後多くの関係者有志の努力により、昭和四六年十月十二日、慰霊碑が完成し、大勢の日ソ関係者の出席を得て除幕式が行われた。ただ、前田の出版後、ソ連の公文書から乗員は漁民でなく、金鉱山で働かされていた囚人と判明した。
 目前の遭難者の救援は誰であれ当然だが、裏の事実が伏せられたままだったのは当時の暗い社会を垣間見たようだ。

 猿払(さるふつ)、浜(はま)鬼(き)志(し)別(べつ)、稚(ち)泊(はく)連絡船(稚内と大泊を結ぶ連絡船)

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