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「800字文学館」

アヒルと先輩を真似て

池田 隆

 山荘の窓が薄明るくなり、鳥の鳴き声が聞こえ始めた。床からとび起き、毎朝お決まりの散歩にひとりで出掛ける。八ヶ岳西麓の別荘地内を廻る四粁強のコースである。白樺や落葉松に囲まれ、天気次第では南アルプスや北アルプスを所々で遠望することができる。さて今朝はどうだろう。
 太陽が山の端から昇り始め、山霧のけむる樹間に光の帯を斜めに描く。蝉はまだ目覚めていないようだ。朝露で顔を洗ったばかりの若々しい月見草が、左右から次々と「お早うございます」と無言で私に声を掛けてくる。
 始業一番で工場内を巡回していた現役の頃を思い出し、背筋を伸ばしながら歩いていると、先日の鮫島純子氏の講演が頭に浮かぶ。九十七歳の氏は一時間半も姿勢を正し、立ったまま若々しい声で淀みなく話をされた。内容も祖父の渋沢栄一と暮らした幼い頃の逸話に始まり、今日まで心身ともに健康に暮らしてきた体験談とその秘訣など、聴衆を飽きさせない。
 日頃より散策を趣味と健康法にしている私がとくに興味を覚えたのは、氏が明治神宮の境内散歩で毎朝実行されている「正しい歩き方」のコツである。背筋はピーンと、胸を開き横隔膜を上げて、腕を振り、直線上を歩く気持ちで、云々。
 これらの要領のうちで、「前に三割、後に四割」という手の振り方は全くの初耳であった。今までは防衛大学生の行進を見たときから、前に大きく振ることを意識してきた。さっそくアヒルが水搔きで泳ぐ姿を想像し、手の平で空気を後ろに大きく押し出す感覚で試してみる。
 すると、「腰や腿を前に出して歩け」など、これまで教わってきた沢山のチェックポイントがこれ一つで同時に解決するような気がしてくる。ゴルフのレッスンではないが、一動作中に多くのことを意識するのは難しい。だがこれなら簡単だ。都会に戻ったら店頭のガラス窓で自分の歩き方を確認してみよう。
 何歳になっても人生の先輩の言は有難い。これでまた健康寿命をかなり伸ばせそうだ。

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