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「800字文学館」

モヨロ貝塚

稲宮 健一

 前回に引き続き、道東の旅行記である。司馬遼太郎の「オホーツク街道」に書かれたモヨロ貝塚館を訪れた。網走駅からバスで十分ぐらいの所で、網走川の河口にあった。貝塚館は二階建で、こじんまりした建屋だが、建物の外の竪穴住居跡や墓跡を含む遺跡全体の敷地は広く、学校の運動場ぐらいあった。
 一階の奥に横幅十m、深さ二mぐらいのガラスケースの向こうに貝塚の横断面が分かる展示があった。地表面から五〇cmぐらいの深さに貝殻が一杯埋まっている実物の貝塚を初めて見た。他に毛皮の縫いぐるみを着て銛で漁をするモヨロ人の復元人形があり、当時の生活の様子がうかがえた。モヨロ人は一五〇〇年前に生活していた人々で、貝塚から出土した骨から日本人ともアイヌ人とも違う人種のようだ。弥生人が大和近辺で生活していたころ、モヨロ人は樺太や、大陸の沿海州とつながり狩猟採取のオホーツク文化圏で生きていた。その証として北海道で出土した同じ黒曜石が沿海州からも出土したり、モヨロ遺跡の土器が縄文や弥生と異なり、旅順博物館に類似の土器が展示されいるなど、大陸と交流の跡がある。

 網走の丘にある道立北方民族博物館にも、雪や氷に埋もれた世界で生活する毛皮の衣服をまとった人々の生活が再現されていた。家を建てるなら、夏を過ごしやすくすべしと徒然草に書いた我々の祖先は北辺の地を生活圏にできるなど考えが及ばなかった。幕末に押し寄せたロシア人は毛皮と食料をバーターしたかった。だが、日本人はパリの貴婦人のように毛皮への執着心はなく、北国の常識は通じなかった。

 モヨロ遺跡を大正二年(一九一三)に発見し、詳細に発掘調査を行ったのは米村喜男衛であった。米村は理髪業を職業とし、同時に考古学を深く研究した。通常の学者としての学歴はない。当時の北大や、東大の学者と共同で遺跡の研究に専念し、成果として多くの立派な研究論文の実績がある。丁度植物学の牧野富太郎翁に相当する。

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