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「800字文学館」

雲居にて

池田 隆

 南側の窓際に置いたベッドで瞼を開くと、うすく澄んだ空が広がっている。未明にカーテンを開け仲秋の名月を眺めていたが、また一眠りしてしまった。早朝散歩に出掛けようかと飛び起き、ベランダに出て遠方を見渡す。
 東の大手町から南の天王洲にかけての都心のビル群がキラキラと輝き出す。その先の房総や三浦半島を白いむくむくとした入道雲が縁取っている。見上げると綿雲の遥か上空に淡い筋雲や鰯雲。前線がやや南へ下り、昨日までの夏の湿った空気が秋の清々しい空気に替ったのだろう。
 西へ目を移していく。伊豆の天城山、箱根、大山がうす暗い中に稜線を見せている。富士山と丹沢を背に隠す新宿副都心街には、残月が将に沈んでいく。その右に続く奥多摩や秩父の連山は明るさを徐々に増し、山霧のような雲を中腹に棚引かせている。西側ベランダから乗り出し北を眺めると、浅間山、榛名山、赤城山が姿を見せ、北関東はすでに青空だ。
 この市ヶ谷の高台に建つ高層マンションの上層階に越し六年目となるが、あと一月で去らねばならぬ。郊外の一戸建てで長らく暮してきた身には、都心の高層階での生活は新たな体験と発見の連続であった。とくに僅か百数十メートルの高さで、天空をこれほど身近に感じるとは夢想だにしなかった。
 ある時は低く垂れこむ雲海の上になり、地上が全く見えなくなる。関東平野の一部では日が差しているのに、少し離れた別の個所では薄黒い太い帯が垂直に立つ集中豪雨、稲妻も走る。空を覆うもこもこ雲が燃えるように深紅に染まり、まるで地獄絵を連想させる。雲の切れ目から太陽光線が放射線状に地上へ降り注ぐ光芒は神々しい。冬の夜明け前、東の地平線に沿う真紅から紺碧へのグラデーションの空には身が引き締まる。
 これら空や雲の諸現象は時々刻々変化する。山頂やタワーの展望台に登り、暫し其処に居ても滅多に出合えない。高層マンションの上層階で四六時中生活し、初めて得られる貴重な経験であった。

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