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「800字文学館」

神武東征と「朱」の関係②

首藤 静夫

 前回、神武東征とは水銀朱を求めて一山また一山と九州から東進を続け、近畿の山奥に辿りついた鉱山師集団という仮説を述べた。三重、奈良、和歌山は水銀朱の宝庫だったのだ。
 ところで纏向遺跡である。桜井市と天理市にまたがるこの遺跡は2世紀末に出現し、4世紀半ばに終焉したとされる。国内最大の面積をもつ遺跡だが謎が多い。例えば、一般人の住む竪穴式住居が乏しい、農業の形跡がない、防衛のための環濠がない。出土品は工作関係の器具や各地の土器、さらに当時の日本にはない紅花の種などだ(紅花は染色用)。住居は貴人用や倉庫に使われる高床式が多い。
 纏向は、前を湖(古奈良湖)及び大和川等の河川により瀬戸内海、琵琶湖に通じ交通の要衝であった。後ろは桜井、宇陀さらには吉野を初めとする山が続く。水銀朱の山々である。
 総合して考えると、この遺跡は水銀朱を中心とする鉱物の交易場跡ではあるまいか。ここで定期的に市が立っていたと想像できないだろうか。人が常時生活する場というより、市の開催の度に各地から人が寄り集まったと考えたい。各地からの土器が広く出土するが、地元以外では尾張・東海系が半分近くを占めるそうだ。
 貴重な鉱物資源であるが何と交換したのだろうか。大陸や半島、西日本では早くから文化が栄え、文物が豊富ゆえに交易材料は多かったろう。剣や鏡、勾玉などはこの辺りの古墳に眠っているだろう。
 東日本は何を提供できたであろうか。翡翠などが出る地域は別にして物品は乏しかったろう。おそらくは人=労働力でなかったかと想像する。採掘には多くの鉱夫を要するからだ。さらには古墳の造営にも多量の労働力を必要とするが、ここは人口稀少の地なのだ。
 こうして水銀朱を支配した鉱業王が次第に勢力を拡大し、後にいうところの大王(天皇)となったと考えたい。この付近には崇神天皇陵、景行天皇陵はじめ巨大古墳が多い。いずれも鉱業王かその後継者が作らせたものであろう。

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