作品の閲覧

「800字文学館」

協調会―その3 協調会館

大月 和彦

 1919年(大正8)設立の協調会は、当初丸の内に事務所を置いたが1922年芝公園6号地に協調会本部会館を建設した。一部5階建ての会館は、一般の集会が出来る講堂や談話室を設けた。また、社会事業の関係団体の事務所に利用できる「デスクルーム」や来館者のための食堂を設けるなど開放的な建物で,建築技術の上からも記念すべきものだった。*
 竣工直後に起こった関東大震災でも会館は損傷がなく、避難者の受け入れや臨時病院の設置など救援活動を行なったという。

 以来1946年GHQの勧告により解散するまでの間、各地に起こった労働争議の調整に当たるなど協調会の活動の拠点だった。
 協調会が運営する夜間課程の社会政策学院がここに置かれ、小泉信三、高橋誠一郎など当時の若手学者の講義が行われた。労働関係の専門図書館や各地の職業紹介所の連携調整に当たる中央職業紹介所もここに置かれた。

 会館二階の講堂では大正から昭和初期にかけて、無産政党や労働組合の集会が盛んに開かれた。
 鈴木文治、松岡駒吉、西尾末広、浅沼稲次郎など労働運動史に名を残す闘士が論戦を繰り広げた。臨検席の警察官から発言を注意、中止を命じられ、怒号か飛び交い、壇上や壇下を入り乱れての乱闘が繰り返された。
 報道界の労働記者クラブがここに置かれ、労使関係のニュースを発信するなど芝の協調会館は労働問題のメッカといわれた。

 協調会の解散に伴い、会館の建物は(財)労働委員会会館などに引き継がれ、1965年に取り壊されるまで、戦後新設された中央労働委員会の庁舎として使用された。国内の耳目を集めた昭和30年代までの私鉄争議、電産争議など大きな労働争議の調整は、ここで行われ全国に発信された。当時、建物の玄関の隅に「協調会館」と書かれた銅板が残っていたという。
 協調会館の跡地に建てられた「労働委員会館」には中央労働委員会が入居し、中央省庁が集まる霞が関ではなく、協調会ゆかりの地で労使紛争の調整を行っている。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧