吉野のかくれ里 井光(いかり)
ある読書会で白洲正子の『かくれ里』を読んだ。人里遠く離れた秘境ではなく、街道筋から少しそれ、ひっそり閑とした山間の集落を訪ねた紀行文である。その中に「吉野の川上」の一編がある。
吉野はかくれ里にふさわしい。壬申の乱の大海人皇子、頼朝に追われた義経、南朝の朝廷、尊皇攘夷派の残党天誅組など、古くから落人や残党が身を隠すのに都合のいい場所だった。
高名な考古学者の紹介で、吉野山中にいる「筋目の人」に会うため、下市から吉野川に沿って東へ向かい、宮滝、菜摘などの上流にある川上村を訪ねた。
14世紀末((明徳3年)南北朝の和議が成立後も断続的に行われた皇位回復運動に参加した人たちの子孫―筋目の人と呼ばれる人たちが吉野に散在する集落にいると聞き集まってもらい話を聞く。翌日、南朝を偲ぶ朝拝式が毎年行われているという柏木集落の金剛寺に参拝し、さらに山奥にある井光に向かった。振り仰ぐような山頂にあるこの集落に、よく人が住んでいると思うと記す。
吉野郡川上村井光は、記紀が伝える神武天皇東征で熊野から吉野に入ったとき尻尾の生えた人間に出会ったところ―井氷鹿(いひか)の地だ。
40年ほど前、大阪に勤務していた頃、職場にいたT嬢の実家が川上村井光にあった。吉野へ行った帰りに同僚とTさん宅に立ち寄った。国道から分かれ、吉野川右岸のうっそうと茂る杉林の中のつづら折りの道を車で10分走ると林が途切れる。こんなところにと思うところに学校や神社がある集落があった。下方の吉野川を挟んでいくつかの集落が見渡せる。南朝の子孫が隠れたというのがうなずける。
代々続くこの家を継いでいるT嬢のお父さんは林業の仕事をしているという。この集落は少し前85戸あったがどんどん少なくなっている。特産の吉野杉が好評なのは密植して育てるので材の根元と先端の太さが同じになるから、など吉野の林業の話をしてくれる。
井光の習慣や年中行事、歴史や南朝への思いなどを聞いておけばよかったと思う。