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「800字文学館」

避難に必要なものは

首藤 静夫

 スマホの緊急音が鳴った。川崎市高津区に大雨・洪水警報を発令とある。
 台風19号が関東に近づいた朝のことだ。面倒くさがり屋でいつもは「婦唱夫随」を決め込んでいるが今回は決断が早かった。
「さあ、逃げるぞ!」
 多摩川の下流域に住んで洪水騒ぎには慣れっこだが、今回は特別なものを感じた。
 妻をせかせて脱出準備を始める。避難に必要な物は常備してあるから慌てることはない。避難先も道順も分かっている。今まで逃げた経験がないので、少しワクワクする。
 2階から川の様子を窺う。まだそれほどではない。
「運べる貴重品は少し2階に上げておくか」
 夫婦で運搬作業を始めた。書類、電子機器などの軽いものはすぐに片づいたが衣類の多いこと、ハンガーに吊してある日用品だけでも、ふうふういうほどだ。ところが妻は簞笥を開けて、引き出しごと全部上げるといいだした。おいおい、そこまでしなくても、と言うがどんどん指示される。引き出しの中身は重いし角張っているし階段は狭いし、おまけに腰痛持ち。冷や汗が出る。余計なことを言わずにさっさと逃げればよかった。
 大体片付いた時、ふと、
(待てよ、体育館で過ごすのだから何か気つけ薬が要るな。といって目立つのはまずいし……)
 そこでウイスキーを中型のペットボトルに移し替えて持参することにした。
「これならお茶にみえるだろう」と妻のリュックに入れて貰った。避難所に向かう雨の中、
「ウイスキーはちゃんとあるだろうな」
「大丈夫よ、ここに入れたから」
 しばらく歩いたところで妻が、
「あ、忘れた。ウイスキーなんて言うから、ジュエリーボックスを置き忘れたじゃないの」
「どのみち安物だろう、流されたらまた買えば……」
 翌朝帰宅。車はやられたが家は幸い難を逃れた。周囲のお宅はかなり被災している。土地の少しの高低が明暗を分けた。内水氾濫だった。隣の多摩川もあと一メートルで土手を超えるところだった。次に備えてウイスキーは避難袋に入れておこう。

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