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「800字文学館」

ある男の一生

首藤 静夫

 近所でご不幸があった。ある家の長男が急死した。59歳という。
 狭い道を挟んで8軒が私たちの班である。このお宅は比較的遅く来た1軒だが、それでも30年にはなる。
 一家は両親と子供4人だったが、父親が早く他界、2人の姉妹が嫁ぎ、母親と兄弟の3人暮らしが長く続いた。兄弟には安定した職がなく、母親の年金等で生活しているようだった。
 亡くなった長男には奇癖があった。彼の家は角地で別の通りにも面し、その道には街路樹があり植え込みがある。その植え込みの中の枯葉を集めるのだ。そこまでは結構なのだが、隣近所の庭に入り込み、枯葉やゴミを拾う。拾ったものは側溝や少し離れた家の門口に捨てるのだ。注意しても治らない。自宅回りの目に入る枯葉などが気になるようで、拾わずにいられないのだ。それ以上の迷惑はかけないから周囲が折れ、妥協して暮らしてきた。
 無口な質で挨拶はしない、他人とは目を合わせない。時々、自転車で風来坊になって出かけていた。
 彼の死を聞いたとき、故人には悪いがややほっとした。だが、日がたっても生前の姿が薄まらずにいる。植え込みの近くを通るとき、黙々と枯葉を集めていたその姿が蘇る――炎暑の中、汗の滲んだ開襟シャツ、冷たい小雨の中の古ジャンパー。

 彼の一生は何だったのだろう。社会との縁は薄く、恐らくは恋愛や友人との語らいもなく枯葉を拾い続けた一生……。だが不思議に暗さはなく、飄々として若く見えた。
 高橋治に『名もなき道を』という作品がある。医者の名家に生まれ、両親の強い期待を背負いきれずに、変人奇人として生き、中年で死ぬ男の一生が描かれている。主人公は周囲に無用にぶつかっては打ち砕かれ、社会的には無意味と見える生き方を通した。それでも、とどのつまりは禅で説く「空」だと作者はいう。社会的な名声や地位、財産など何ほどのことかというのだ。
 作中の主人公とは異なるが、身の回りにもある意味で「名もなき道」を歩いた人がいた。

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