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「800字文学館」

極楽トンボ

池田 隆

 たっぷり寝た感じで薄明りに瞼を開けると、いつもの天井や壁の模様がボヤっと見えてくる。枕元のロールカーテンを上げてみる。大山や箱根の稜線が馴染みのシルエットを描いている。テレビをつけると早朝の体操番組が始まった。聞き慣れたリーダーの声、だが並んで演技する若い女性陣の顔ぶれが目新しい。
 廊下に出て家の内外を見渡すと、窓や部屋の仕切り等が一新されている。建売だったこの家を数十年前に購入したとき、さらに手持金が有れば是非やりたかった改装である。首をかしげつつ玄関から外に出ると、和風造りだった隣の家屋は白い素敵な洋館に替っている。
 顔見知りのご近所の老婦人がたまたま通りかかり、懐かしそうに話し掛けてきた。聞いていると、その方のご主人をはじめ隣近所の亭主方はこの数年で皆さん亡くなり、奥方ばかりが残っているという。隣の洋館は新たに越して来た有名なサッカー選手のお宅だとのこと。
 最近の記憶がだんだんと蘇ってきた。311の惨事を経験しても遅々として進まぬ核廃絶や脱原発に憤りを燃やしているとき、妻が末期がんの宣告を受け、私も心臓病の発作が起こり相前後して斃れた。そのどさくさ騒ぎで四十九日の法要も忘れられたらしい。二人の魂は浄土には行けず、ふわふわと中陰をさ迷い、市ヶ谷にあるタワーマンションの高層階に引っ掛かり、住み着いてしまった。
 極楽トンボよろしく、ままよと都心の旨い店や名所旧跡を訪れ、代々木のペンクラブに通っているうちに瞬く間に六年間が過ぎてしまう。息子や娘たちが営んだ昨日の七回忌の法要で、息子の住む横浜の旧居に数日間呼び戻させられたのだ。納得、納得。さて明日からはどうするか。大好きな八ヶ岳にでも飛んでいくか。
 だが自分の死から六年後の政治情勢にも一寸興味が湧く。自室に戻りテレビをつけると、ニュース番組である。柄悪い大男が米国大統領で、あの安倍が首相の最長在任期間を更新したという。「世も末だな」とスイッチを切る。

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