ヴァン・ゴッホの耳
来年六月に百周年を迎える新宿武蔵館で『ゴッホとヘレーネの森』という映画を見た。
ヘレーネ・クレラー・ミューラーというオランダの女性が蒐集した、無名だった頃からの絵画約三百点と、ゴッホが弟のテオに宛てた数十通の手紙をもとに、伊、仏、米の研究者が画業十年のゴッホの芸術性を解き明かす映画だ。37歳の生涯で37回引っ越しをしたゴッホの画風の変遷の様を以下のように如実に伝える。
「オランダのハーグ時代(1880年)には農民画家の影響で静謐な暗い茶色がかった作品が多かった。86年に移動したパリでは台頭し始めた印象画家から数々の刺激を受け、明るい色彩の絵が多くなる。なかでもA・モンテイセリの絵の具を何重にも叩きつけるように盛り上げる画法を自家薬籠中のものにする。
87年に南仏のアルルでゴーギャンと同居するが二か月後に喧嘩別れをする。究極の朱色を求めるゴーギャンと『麦畑』に代表される太陽光の黄色を志向するゴッホとの同居は長続きしなかった。その折精神的に不安定だったゴッホは剃刀で左の耳を切り落としてしまう。(『栄光の門』という別の映画を見るとアルル以降の彼の心境の変化がよくわかる。)
89年にサンレミの精神療養院に入退院し、90年に医師をたよって転居したオーヴェル・シュル・オワーズでは『糸杉』『薔薇』に代表される多数の絵画を凄まじい速度(80日間に75点)で描くが、暴漢にピストルで撃たれ二日後に絶命。
ゴッホは芸術家として生前は不遇であったが、死後に作品に魅せられた富豪のヘレーネ夫人の偉業によりゴッホとその作品が世に出ることになる。」
おりしも上野の森美術館でゴッホ展が開催されている。ハーグ派、印象派の画家の絵も参考展示されている中で、ゴッホの代表作『糸杉』の実物に接してみると、その盛り上がるような迫力・立体感に圧倒された。
ゴッホは左耳を切った筈だが、自画像では右耳に包帯をしているのに気付いた。自画像は鏡を見て描かれたからだと独断で納得した。