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「800字文学館」

オクチルちゃんとの再会

志村 良知

 40年ぶりにオクチルちゃんに会った。
 きっかけは、プールで右の耳に水が入った事だ。頭を傾けての片足飛びなどしてみてもすっきりしない。綿棒で耳の中をかき回してみたが耳が詰まった感覚が強くなっただけ、まあだんだん治るさ、と放っておいた。
 そのうち食卓で右直角の位置にいる連れ合いへの聞き返しが増えた、と感ずるようになったが、日常の音やテレビの音は不自由なく聞こえるので別段気にもしなかった。しかし、ステレオでヘンデルの合奏協奏曲を聴いて驚いた。弦楽合奏にオーボエとチェンバロの楽器の定位が非常に明確な録音なのに全部左の外側に寄っていて定位も何もない。
 ここに至って右の聴力がおかしいのではないか思い至った。左耳を塞いでみると果たしてほとんど聞こえない。驚いて耳鼻科に行くと、耳をスコープで覗いて「耳垢が詰まっていますね」と一瞬で診断がついた。濡れているところを綿棒で突き固めた耳垢は今のままでは真空吸引でも無理、と耳垢を柔らかくする点耳薬を処方された。横になって耳の穴を上にして朝晩10滴位を垂らし込むのだという。寝耳に水である。
 薬の説明書に『ジオクチルソジウムスルホサクシネート』とある。コハク酸のジオクチルエステルの水和物だ。「これは水溶性の可塑剤だね」と若い女性薬剤師に言うと「凄―い、良くお分かりですね」と絶賛される。

 コピー屋としてオクチルちゃんには悩まされた。コハク酸ではなくフタル酸のジオクチルエステル・DOPは塩化ビニル樹脂の可塑剤で、40年前にはDOPで柔軟にした塩ビがプラスチックシートの主流だった。このDOPがシートに密着しているコピーのトナーを溶かしてシートに固着させ剥がせなくなる。感熱紙定期券では定期入れの透明窓が接触している文字を消してしまう。これをコピー側だけから解決するには材料技術の根本的変換が必要だった。

 耳垢は寝耳に水を朝晩続けて三日目、吸引であっさり取れ、その瞬間聴力も戻った。

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