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「800字文学館」

市井の古代史研究家、首藤静夫氏に啓発されて

斉藤 征雄

 一世紀から三世紀頃各地にクニが起こり互いに争った。そんな中で邪馬台国が出現、クニグニは女王卑弥呼に服して動乱は収まる。三世紀の中頃卑弥呼は死ぬが、再び争乱が起こり一族の娘台与が王位につき平穏を取り戻した。邪馬台国についての記録はそこで途絶える。
 その後四世紀は文献資料がほとんどなく謎の時代と言われる。しかし三世紀の後半には天皇家のヤマト政権が成立したことは間違いない。

 邪馬台国はどこにあったのか、そしてヤマト政権とはどのような関係にあるのか。
 邪馬台国大和説をとれば、邪馬台国がそのままヤマト政権につながったことは明らかである。邪馬台国は纏向遺跡にあっただろうし、卑弥呼は箸墓古墳に眠っているのだろう。
 一方九州説をとれば、邪馬台国はヤマト政権に征服されて滅んだか、もしくは九州から遥か東遷して大和の在地勢力を破ってヤマト政権を作ったかのどちらかになる。後者を主張する学者には、『記紀』の神武東征説話にからめて説明しようとする者も多い。

 私は、九州にあった邪馬台国が国ごと東遷したという仮説は、史実に全く痕跡がないので無理があると思う。しかも神武東征説話は、出発点が九州北部ではなく日向である。
 九州説でヤマト政権に滅ぼされたとする説はありうると思う。当時の文化の先進地域は九州であるので九州説の根拠は強いし、北九州の宗像、宇佐の神社勢力が一貫してヤマト政権側だったことから命を受けたそれらに滅ぼされたと考えれば、この説は大いに説得力がある。
 しかし邪馬台国論争は決着しないだろう。今後箸墓古墳が発掘されるか、卑弥呼が魏からもらったという金印が発見されるかでもないと新たな展開はないと思われる。

 それよりも私の関心は、ヤマト政権の出自である。邪馬台国東遷はないとすれば、大和で他の豪族を制圧して政権を確立した天皇家はどこからやってきたか、その力の源泉が何であったのかがよくわからない。そういう意味で首藤氏の研究成果が待たれる。

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