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「800字文学館」

東慶寺への思い

清水 勝

 元和2年(1616)、紅く輝く葉が寂しく散り始める晩秋の鎌倉東慶寺に、華美を抑えた駕籠が着いた。茅葺きの山門までの急な長い階段を、乳母に手を引かれ一段一段、朽ちた落ち葉を踏みしめながら登っていく奈阿姫の姿があった。7歳ながらも、自分の悲しい運命に立ち向かっているようであり、前の右大臣豊臣秀頼息女で、将軍徳川秀忠息女千姫の養女という畏れ多い身分に応えようとしているようでもあった。
 出迎えた19世住持 法清尼様は、
「お待ちしておりました。この静かなお寺で、まずは心清らかになって頂き、作法、書、歌道、茶道、華道を身に付けて頂ければ結構でございます。まだ幼うございますから決して落飾を急ぐことはありません」
と、粛然たるお声で話された。
 豊臣の血は女といえども絶っておかねばならぬという家康の考えを、千姫の必死の願いにより、東慶寺の尼になることで奈阿姫の命は救われた。

 それから10年を迎えようとしていた17歳の春、かぐわしい香りを放ちながら、気品貴く咲く梅の花に囲まれて、奈阿姫は髪を下ろした。天秀尼の誕生である。
 師の法清尼から東慶寺の使命が説かれた。
「知っての通り、当山は男子禁制を寺法としており、何人も男たるものは入山できぬ。さらに力弱き女人の駆込み寺として、女人に心静かに過ごす場を与えておる。その力弱き女人にもできることがあるのじゃ」
「何事でございましょうか」
「それは力で負けても、心で負けぬということじゃ。決して屈しなければ負けはせぬもの。その心を学ぶのじゃぞ」
「解りました。強い心を学ぶよう修行いたします」

 嘉永16年(1639)天秀尼三十歳の時に東慶寺第20世住持となった。その直後、会津藩内の対立により、家老堀主水の妻娘が東慶寺に駆込んできた。天秀尼は決して屈しない強い心で、藩主の追手を入山させなかった。

 東慶寺は今、梅の香りに包まれている。

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