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「800字文学館」

寧静致遠

塚田 實

 今年の旧正月は新型コロナウィルス問題で大騒ぎになった。武漢は交通の要衝であり、工場も多いので何度も訪れたことがある。事態が早期に収拾されることを切に望みたい。

 毎年旧正月の頃になると、上海に隣接する古都、蘇州市を懐かしく思い出す。市が経済発展にアドバイスを求めるため経済委員会を立ち上げ、私もメンバーの一人に選ばれた。そして2006年1月初め、一連の行事を終え慰労会の席で市からお土産を頂いた。誕生年の干支を縫い表した蘇州両面刺繍置物だ。この年の旧正月は1月29日だった。私の誕生日は1月。「干支は猪だが、中国ではブタだな。ブタの刺繍か」と思ったが、頂いたのは可愛らしい犬の刺繍だった。「中国では、旧正月前は前の干支です」。嬉しいような、ちょっと寂しいような。

 翌日蘇州郊外にある寒山寺を訪れた。張継の「月落ち烏啼いて霜天に満つ……」で始まる『楓橋夜泊』の詩で有名だし、寒山拾得が居たことでも知られている。境内に店があり、性空住職の書が並べてあった。師は当時80歳を優に超えていた。「『楓橋夜泊』の書はありませんか」と尋ねると、「ご住職に揮毫を頼みますから、後で送ります」と言うので、代金を支払った。
 北京に書が届いた。喜んで開けてみたら、全く異なる書で「寧静致遠」と大きく書いてあった。調べてみると、蜀の諸葛亮孔明が五丈原の戦いの後、病で亡くなる前に子供に託した家訓で、中国では有名な言葉と分かった。調べると、「心安らかでなければ、大きなことは成し遂げられない」の意味と知った。気に入ったので上海の駐在員に連絡し、「この書も頂きたい。追加金額を払うので『楓橋夜泊』の書を送ってほしい」と依頼した。
 暫くして新しい書が届いた。そして、「寧静致遠」は性空住職からの春節贈りものとして受け取っていただきたいとのことであった。

 師は2017年96歳で亡くなられたようだ。二つの書は時々我が書斎を飾っている。

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