一神教と多神教
数年前、家の近くのスーパーの入口で、西洋人の若者から突然日本語で「今日は!少しお時間良いですか?」と話しかけられた。見ると20代前半で、同じくらいの年頃の日本人が付き添っている。一寸からかってやろうと、英語で話をしてみることとした。
「何処の国からきたの?」
「米国です」。
「どの州?」
「ユタ州です」ここでピンときた、この若者はモルモン教の布教のために日本に来たに違いない、と。
「ソルトレイクシティから来たんだな。で、どれくらい日本にいる予定なの?」
「二、三年いる予定です」。
「判った。モルモン教の布教に来たのだね」。
「そうです、よく判りましたね。モルモン教に興味ありますか?」実は私は、若い頃に罹りかけた麻疹(共産主義のこと)のおかげでほぼ無神論者であるが、話を面白くするため、次のように答えた。
「興味は無いよ。何故なら私の宗教は八百万(やおよろず)教だから」。
「それはどういう宗教なのですか?」
「八百万というのは数え切れないという意味で、無数の神様がいて、それらを敬うというものだよ。多くの日本人がこの八百万教だ」。
「具体的には、どのような神がいるのですか?」
「山には山の神が、川には川の神が居り、万物にその固有の神がいる。又、人も死ぬと神になる事がある。数え上げていたらキリがない」。
ここで件の若者は思いがけない質問をしてきた。
「それらの神々の中で、あなたにとって一番重要な神はどれですか?」
「…」と、一瞬返答に詰まると共に、一神教の人はこういう考え方をするのかと得心した。様々な神々がいる場合でも、必ずナンバーワンの神がいるに違いないと。
「みんな平等だ。山に行ったときには山の神を近しく思う、というような事はあるが、基本は平等だ」彼は、何とも解りかねる顔をしていた。それ以上の議論は不毛と思い、彼の日本での健闘を願い、握手をして別れた。
彼はその後、八百万教徒を改宗させる機会に恵まれただろうか。