参宮橋界隈今昔
企業OBペンクラブが集まる参宮橋の「青少年センター」あたりは江戸時代には原野だった。明治になって「陸軍代々木練兵場」になったが、今日の青少年センターから明治神宮、代々木公園、国立代々木競技場、NHKセンターあたりまでを含む広い土地だった。
一九一〇年に陸軍大尉徳川好敏が日本で初めてエンジン付き飛行機を飛ばしたところだし、南には二・二六事件の安藤大尉ら一九人が処刑された陸軍刑務所があった。
敗戦後練兵場は米軍に接収され、空軍将校用の宿舎「ワシントンハイツ」が作られて、廃墟となった東京に瀟洒な洋風の住宅街が出現した。
そのころのことを「カメラ毎日」の編集長だった西井一夫さんが「昭和二十年東京地図」に書いている。
「私が参宮橋駅そばの都営住宅に•••移ってきたのは小学校に入学した年の夏、昭和二十七年だった。目の前の小田急線の線路の向こうは麦畑が広がり、その先はワシントンハイツ••• 小田急線は一輌で、扉は手で開けて乗り降りしていた」。
いま、その参宮橋駅をロマンスカーや急行、準急が長い編成で轟音と共に走り抜ける。
線路沿いには「春の小川」のモデルの河骨川が流れていて、メダカも棲む長閑な田園風景を見せていたが、いまは惨めな汚水暗渠となり、名前だけ「春の小川通り」と呼ばれている。
ワシントンハイツはやがて日本に返還され、東京オリンピックで代々木競技場や選手村に変貌した。青少年センターはその選手村の後身である。
ハイツは“日本人オフ・リミット”だったが、住民は子供には寛容で、近所の子供たちはハイツに入ってよく野球をやって遊んだという。
そこで生まれた少年野球チームに「ジャニーズ」があった。監督の名はジョン・ヒロム・キタガワ。のちに「ジャニー・喜多川」と名乗って芸能事務所「ジャニーズ」を立ち上げ、戦後日本のエンターテインメント界の草分けとなった人である。
青少年センターは日本の芸能のメッカでもあったのである。