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「800字文学館」

病気は伝染(うつ)るもの

野瀬 隆平

 小さいころ、よく言い聞かされた言葉があります。
 「手を洗って、うがいした?」です。
 外から帰って来たときや食事の前に、手を洗えと口うるさく、母から注意されていました。80歳を超えた今日、また同じ言葉を繰り返し聴くようになるとは、思ってもいませんでした。
 確かに、新型コロナに対抗するのに、個人としてできる有効な手立てであることは、間違いないでしょう。
 しかし、この「手を洗う」ことが、病気との関係で重要であると皆が知るようになったのは、そう古い話ではありません。少なくとも19世紀の中頃までは、医療に従事する人たちにとってさえ、常識ではなかったのです。

 1800年代の中頃のことです。ウイーンの大学病院の産科で働いていた医者の一人が、多くの妊婦が産後に死ぬのが気になっていました。二つの病棟のうち、一方は医師や医学生が担当し、もう一方は助産師が従事していたのですが、死亡する割合が明らかに違うことに注目しました。
 助産師が扱った方が死亡する人の数が少なく、医師や医学生のほうが多いのです。後者はその前に解剖していることが多い。そこで、彼は何か目に見えない微細な物が関わっているに違いないと考え、手指をよく洗うことが必要だと考えました。
 今では、考えられない事ですが、解剖の後に手をちゃんと洗わずに、お産に立ち会っていたのです。何せ、パスツールやコッホによって細菌が知られるようになったのは、これからまだ数十年も後の事なのですから。

 この医者こそ、イグナッツ・ゼンメルワイスで、後に「感染制御の父」云われるようになった人です。
 しかし、彼がこれを発表した時、仲間の医者からはそんなことなどある筈がないと、猛烈な非難を浴びました。
 それでも主張を変えないゼンメルワイスは、ついに頭のおかしな人間に仕立てられ、最後には精神病院に入るはめとなりました。
 発表した時には認められず、不遇のうちに生涯を終える人がいることを忘れてはいけないのです。

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