東慶寺訪問
エッセイの会の合宿が鎌倉、由比ガ浜のホテルに一泊して行われた。二月上旬、都心を離れ、家を離れ、老青年達は日常の気分を変え、いつにない高揚感を楽しむ。会合の窓辺の陽光に春を感じるのもこの時期ならではである。
終了後は夫々に誘い合い、寄り道をしながら帰途につく。今回も数名で、北鎌倉で降りる。いずれ「あなた任せ」の輩たちは、提案する人にはこれ従い、近くの「東慶寺」を訪れた。丘の中腹にある山門をくぐる。嘗ては尼寺であった寺の建物群が肩を寄せ合う様に建ち、庭と調和する。一面に並ぶ梅林では、白苔に被われた古木に紅白梅が咲き初めている。柴垣に囲まれ、苔生した茅葺の木戸門の浅緑、遠景の黒松の緑も、未だ冬枯れを残す背景の中で春の兆しの只中にある。更に奧へ歩き、上り坂の果てに見事な竹林を見ながら切通に出る。その削られた地層の迫力、これぞ鎌倉の光景である。
その崖と並ぶ高みに急勾配の石段、「用堂女王墓」の碑が立つ。上り詰めた台地の奥の崖に古代洞窟の体の大きな谷倉(鎌倉期の横穴墓)が彫られ、仏像と共に、五世住持用堂尼の墓がある。用堂尼は、後醍醐天皇の皇女であり、異母兄、護良親王の菩提を弔うために東慶寺に入る。護良親王は楠正成と相携え、南朝の軍事力の要を担い、倒幕の立役者であったが、父後醍醐帝との確執、足利尊氏との対立の中で鎌倉に幽閉され、非業の死を遂げる。
用堂尼の入寺以来、東慶寺の寺格は上がり松ヶ岡御所と称せられた。開創は覚山尼(北条時宗夫人)である。封建時代を通じ、「駆け込み寺」として女人救済の機能を果たしたが、明治三十五年、尼寺の歴史を閉じる。その後、円覚寺派管長、釈宗演が住職となり再興、その門下である鈴木大拙により、松ヶ岡文庫が設立され、禅文化研究の拠点とされた。
用堂尼の墓との出会いから、南北朝の歴史を想い、しばし感慨に浸る。庭の三椏は、日差しを受けてその蕾が銀色に光り、早春の風情を伝えていた。