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「800字文学館」

合歓の木

池松 孝子

 我が家の裏に合歓の木が二本、立っている。ぎざぎざの濃い緑の葉が一年中美しい。

 ある日のこと、傍を通った若い母親が「これはおじぎ草というのよ」と幼い子に教えているのを聞いたことがある。
確かに合歓の木とおじぎ草は一見、区別がつきにくい。おじぎ草は触ると葉を閉じるが、十分くらいするとまた開く。一方、合歓の木はまたの名を「眠りの木」と言って、夜になると自分で閉じる。
 六月になると、大きな合歓の木は、まるで化粧ブラシを木の葉の中に散らしたかのようにたくさんの花をつける。白く細いたくさんの糸を根っこでくくったような扇状にも見えるのは雄しべ。その先の方は薄いピンクに染められていて優しく清楚そのもの。実際に見たことないのだが、舞妓さんの化粧ブラシはこんなのではと連想する。ふんわりとどこかに飛んで行きそうな軽やかさなのである。

 合歓の木の花は、この色合い、繊細なつくりなどから昔から見る人に、妖艶な印象を抱かせてきた。合歓の木と聞くと、この句を想起する人も多いだろう。

象潟や雨に西施がねぶの花     芭蕉

 芭蕉にさえ、西施が出てくる。言うまでもない、中国春秋時代の傾国の美女である。
繊細な白い花の穂先だけを淡いピンクでぼかしたように染めている合歓の木の花から連想されるのは、たおやかな女性だ。

 私は、岡山市東部を流れる吉井川の近くで小学校時代を過ごした。毎年のことであるが、梅雨末期には大雨が続くことが多く、川の流れの急変を何度も見た。
 ある大雨の後、小高い土手から見た川は、濁流とはまさにこのことかと実感する豪快なうねりだった。縦に横にまた上下に流れ同士がぶつかって恐ろしいものであった。
 そんな中に、人なら首から上だけを出したような合歓の木が見えた。右へ左へ激しい流れに身を任せ、あの白とピンクの花を揺らしているではないか。

 今、我が家の裏の合歓の木は何とも心穏やかに咲いている。見ているこちらも優しくなれる。

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