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「800字文学館」

学童疎開—野沢温泉の記録

大月 和彦

 終戦は国民学校4年の時だった。信州北部の村にはB29は飛んでこなかったが、空襲を避けて疎開してきた子供でクラスが膨れあがっていた。

 1944年8月4日、隣村の野沢温泉に東京足立区の小学生1600人がやってきた。村の人口は4800人、スキー客と湯治客でにぎわっていた野沢温泉にとって驚天動地のことだった。30軒余の旅館に分宿することになり、老舗旅館T屋では350人の児童を受け入れた。当時野沢温泉の別荘に隠棲していた、唱歌「故郷」などの作詞者高野辰之は、「当地は疎開児童が2千人も来るので大騒ぎ也。19・8・6」と東京代々木の自宅に書き送っている。

 終戦から75年のこの夏、当時9歳だったT屋の長男Tさんが、疎開児童と一緒に過ごした生活を振り返り、児童の日記や写真、戦後続いた交流の記録を載せた冊子を作った。

 コメや野菜は都会より恵まれていたとはいえ食料不足が進み、男たちは戦地に駆り出され老人と女性だけになった村にとって、これだけの児童を受け入れるのは大変だった。国が示した麦飯3・5合の配給量は守られなくなる。朝食は麦飯にゴマ塩とみそ汁、昼はジャガイモ、おやつはとうもろこしなど。育ち盛りの児童は絶えず腹を空かせていた。児童の母親代わりに世話にあたったTさんの母は、満足な食事を用意できなったことを悔やみ、つらい思いをしたと振り返る。冊子にあるスケッチ「学寮での一日」には、6時起床、布団の収納、洗面、体操、朝礼、朝食、授業、昼食、騎馬戦や相撲、コーリャン混じりのご飯、夜中に両親のことを思い出して泣く場面などが描かれている。

 40万人の児童が対象となった学童疎開については、ひもじさと望郷の思いで綴られた記録が各地に残されている。野沢に来た児童はつらい思い出ともに、豊富な温泉、スキーの体験、野沢菜の味など地元の温かいもてなしを忘れず戦後も交流が続いたという。
 空襲など戦争体験が忘れ去られていく中で、この学童疎開の記録は遺産として子や孫に伝えたい。

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