干瓢
先日、那須の方にドライブした。栃木県に入った辺りから、道路沿いの干瓢畑が目についた。栃木県は干瓢の日本一の生産地だそう。以前、広重の東海道五十三次の近江「水口宿」で、干瓢を干している女性が描かれているのを見たこともあって、干瓢は関西が主な産地かとも思っていた。その水口藩主が下野国に国替えになったとき、種を伝えたという。
干瓢は、盛夏、収穫された夕顔の実を削って干したもの。昔は包丁で、その後、干瓢鉋、今では自動丸剥ぎ機が使われている。この果肉を細い帯状に削って、包帯のようになったものを竿に掛けて、水分を三分の一位にまで乾燥させる。
私が小学生の頃は、山陽地方でも干瓢畑は珍しくなかった。竹竿に干してあるのも見かけたが、広い河原の焼けた石の上に干してあった光景も思い出す。大小の石が広がる河原に、ずらっと白い干瓢が並べられていた。雨に濡らすとカビのもとにもなり、色も白く仕上がらない。農家は神経質に夕立を気にしながら干していた。
小学四年生だった。塾からの帰り道、小学校の二年先輩のYさんがものすごい勢いで河原へ走っていた。夏の午後、急に空が暗くなってきた。彼は慌てて河原の干瓢を手早く肩に、何重にも巻きながら取り込んでいた。私はその手早さにあっけにとられていた。今の小学六年生にあんな大人顔負けの体力のいる仕事ができるだろうか。
干し干瓢故郷の山河ひらひらす 島美恵
三年後、私はYさんと同じ中学校に入学した。さらに高校も同じだった。その頃、Yさんは先生をも論破する生徒会長になっていて驚いた。あの干瓢を取り込む少年の面影はなかった。
三年後、私も大学生になった頃、Yさんが京都の大学で全共闘の活動家として「西のY」としてその筋で有名だと知った。
だが、Yさんは学生運動もまだ下火にもならない頃、突然、脳腫瘍で亡くなった。二十五歳だった。あの炎天下で干瓢を取り込んでいた少年はなぜ、そんなに生き急いだのか。時に思い出す。