佐久間象山、秋山郷へ
幕末の思想家で兵学者の松代藩士佐久間象山は、嘉永年間に信州渋温泉から上州草津温泉を経て中之条町の野反湖へ、、ここから上信越国境の山地に入り、秋山郷に至る11日間の踏査行をした。その状況を『鞜野日記』に著わした。鈴木牧之が『秋山記行』を刊行してから20年後だった。
江戸で私塾を経営した後、伊豆韮山で西洋砲術を学んだ象山は、信州北部の藩領三ヵ村(沓野、湯田中、佐野―山ノ之内町)利用掛を命ぜられ帰藩、開墾や朝鮮ニンジンの栽培など地域起こしに取り組んだ。この間に境界確認や鉱物資源調査のため、三ヵ村の背後に広がる山地から秋山郷に入る公務の旅行をした。
1848年(嘉永元)6月、山役人、猟師など象山一行17人は、渋温泉から渋峠を越えて草津温泉へ。ここから中之条町の北部旧六合村の布池に向かった。当時沼だった布池は、昭和初期に築造されたダムで人造湖の野反湖となった。ここから流れ出る野反川は、佐武流山、白砂山、岩菅山、笠法師など二千m級の山を水源とする魚野川や雑魚川などの川と合流して中津川となり、秋山郷を流れて新潟県津南町で信濃川に注ぐ一級河川だ。
野反湖から秋山郷の最奥の集落湯本(切明)までは険しい渓谷が続き、現在も道路はない。周囲の山への上級者向けの登山道があるだけ。
『秋山記行』には、「湯本から草津へは道という道はない。マタギが通る道だけ。普通の人の往来は思いもよらない。何回もの渡渉や、岸に張った藤蔓に縋って渡る難所があり・・・」記されている。
象山一行は、イワナ猟師の小屋や石室に泊まり、いくつかの源流で鉱石の採取を続けながら歩いた。山中に盗伐者の小屋を発見し、同行の山役人を叱責する場面も。9日目に湯本にたどり着く。和山、屋敷などの秋山郷の集落は素通りして越後に入り、津南から信濃川(千曲川)に沿って南下し渋温泉に帰った。
象山はこの踏査行の後、江戸に出て海防論を展開、吉田松陰の密航事件に連座して下獄、赦免後幕命により上洛し、1864年に攘夷派の浪士に暗殺されるという波乱に満ちた人生を送った。