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「800字文学館」

ケロシン

稲宮 健一

 昭和四十四年佐藤内閣のとき、日米宇宙協力のとりきめが交わされ、米国の会社が日本の宇宙開発に関わり始めた。当時東大宇宙航空研究所が内之浦でミューロケットを、科学技術庁の宇宙開発推進本部(JAXAの前身)が種子島の竹崎で小型のロケットを打ち上げいた。この推進本部のロケットに米国の技術を導入して、大型の国産ロケットに繋げる構想があった。

 米国チームの先遣隊は丸の内の事務所に陣取り、我々も隣の部屋に机を置いた。米国チームのボスはかつて将校として駐留した経験を持つ。ある日このボスに呼び出され酒が欲しいという。彼に言わせると、ケロシンがあるだろう。酒は日本酒か、ウイスキーの洋酒類しか頭に浮かばなかったが、彼は日本にはケロシンがあると言う。よく聞くと焼酎らしい。当時の感覚では焼酎は力仕事の働き手が仕事帰りに一杯浴びる安酒と思っていた。丸ビルの酒屋にはなく、少し離れた明治屋に行くと棚の下の方に宝焼酎が少し置いてあった。彼の所望は達成できた。

 米国チームと付き合う前、東大のミューロケットの追尾レーダーを担当した。糸川博士が率いる秋田の道川時代、レーダーの追尾最大距離は六〇〇㎞だったが、それを八四〇〇㎞に性能を向上させる仕事で、そのエレクトロニクスを設計担当した。伊丹から内之浦に持ち込み完成を確認した。打ち上げの一日前、完成祝いだと酒を買いに行った。鹿児島の村落地帯では酒は焼酎が常識、今なら、水割り、お湯割り、ロックなど、色々な飲み方で味合うが、その時は日本酒同様に生で飲んでしまった。
 打ち上げ当日、二日酔いで頭が痛い。しかし、ロケットを追尾しなければならない。打ち上げ時刻が近づくと、シャッキと頭をクリアにして、制御盤の前に立ち、轟音と共にパラボラアンテナがロケットを追いかけたる操作を行った。地平線の彼方まで追尾し、役目は完了し、良いデータが取得できた。
 とたに二日酔が襲ってきて、全員床に横になったのを覚えている。

ケロシン(Kerosene): 灯油、ジェット燃料、ロケット燃料

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