融通無碍
麻布区民センターで行われる音楽仲間K氏の講演を聞くために六本木でバスを降りた。交差点を南に進むと右にあるのは後藤花店の筈が、なんとカフェに変わっているではないか!兎に角今日のランチはここと決めて窓際に席を取った。高い天井やお洒落な内装は昔のままで、近隣の大使館御用達128年前創業の老舗の面影は残っている。以前この近くの小さな会社に勤めたことがある。折しもバブル最盛期、開店祝い、結婚式等、度々此処の花束を利用させてもらった。今回のコロナ禍で派手な宴会は中止になり注文も激減した為、店はカフェに変貌したのだろう。「シャッター降ろしておくのは勿体ない。土地は有効利用しなくては」と、私は勝手に想像する。
さて、K氏の講演のテーマは「辻邦生とモーツァルト」。辻邦生(1925~1999)は、『背教者ユリアヌス』『西行花伝』等、東西を舞台に壮大な歴史絵巻ともいえる多くの名書を送り出した作家だ。講師のK氏は3年前に企画された回顧展で、邦生がモーツァルトを深く敬愛していたことを知った。今回は、作家がいかにモーツァルトの音楽から啓示を受け自らの文学に昇華させていったかを、彼の音楽エッセーなどを読み解きながら探って行く。文学と音楽、抽象をテーマにした理論の展開は一寸難しい部分もあったが、入念な調査に基づいた熱の籠った講演に私は心を打たれた。
かつて『天草の雅歌』他、邦生の小説に感激したことがある。のめり込むには大変なエネルギーが必要だ。今は仕事を覚えることに専念しよう。いずれ自由時間充分の日が来る、それまで封印だと決めた。以来40余年、その決心も現実の雑事に振り回されてすっかり忘れていた。そして今、モーツァルト好きのK氏によって邦生と再会したのだ。
軽薄な自分を残念に思うが、今の私にあの膨大な御作に挑戦する気力も体力もない。
「融通無碍」も長生きするには必要なこと、と勝手な言い訳を呟きながら、手摺りの付いた鳥居坂を下って帰路についた。