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「800字文学館」

運転の想い出

野瀬 隆平

 シティのど真ん中、重厚な銀行の建物が見えてきたときだ。車がガタガタと異様な揺れ方をし始めた。朝、自宅から事務所に車を走らせている途中である。通いなれた路とはいえ、選りに選ってこんなところで……。パンクに違いない。
 車を邪魔にならぬよう左端に寄せて停める。案の定、左側の後輪がパンクしている。覚悟を決めて、スペア・タイヤと交換することにした。
 通行人がこちらの作業を横目で見ながら、慌ただしく通り過ぎてゆく。交換し終えた時には、白いYシャツは、すっかりよれよれになっていた。

 40年も前、ロンドンに駐在していた頃の話である。事務所へは地下鉄ではなく車を運転して通っていた。仕事にも使えるし、まだ近くに広い駐車場もあった。
 子どもが歩いて日本人学校に通えるようにと、リージェント・パークの近辺にアパートを借りていた。出勤日は、自宅から出て大英博物館の前を通り、シティを経由して、タワー・ブリッジの袂にある事務所までの、およそ30分のドライブである。
 当時、国際免許証から英国の免許証へ書換えることはできなかった。入国して一年間は国際免許証でよいが、その後は英国の免許を取らなければならない。教習を受ける必要があるが、いきなり路上である。もともと運転はできるし、イギリスは日本と同じ左側通行なので、運転そのものは問題ない。
 苦労したのは、車の中で行われた簡単な口頭試問である。英語は多少できるつもりだったが、試験官に訛りの強いコックニーで質問され、何度も聴き直し往生した。

 近ごろ、コロナ禍のせいで、遠くへの外出がままならない。体が鈍らないようにと、毎朝小一時間は散歩をすることにしている。近所の家々をじっくり眺めながら歩いていると、車庫に止めてある乗用車が目に入る。どの車もよく磨き込まれていて立派に見える。
 運転免許証を返上してから、何年経つだろうか。あれだけ車で走り回っていたのに、もう一生運転が出来ないのか……。

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