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「800字文学館」

イズミルの想い出

野瀬 隆平

 じっとりと冷たいアンカラの街から逃れるように、イズミル行きの夜行列車に乗り込んだ。個室の一等寝台は、暖かく快適である。
 翌朝着いたイズミルはエーゲ海に面しているだけあって、アンカラとは異なり、明るく空気も爽やかであった。

 今から、もう半世紀も前の話である。トルコ政府との合弁で、イスタンブールの近くに造船所を作るというプロジェクトがあり、トルコに来ていた。私の主な仕事は、合弁の具体的な条件の交渉である。双方の主張がかみ合わず苦労していた。
 交渉相手の責任者は、オザールさんという国家企画庁(SPO)の次官だった。田舎の村長さんといった風貌で、朴訥かつ誠実な人である。彼は後にトルコの大統領になった人物であるが、その時は勿論、予想だにしていなかった。
 三か月経ってもめどがつかず、その間、日本から一緒に来ていたメンバーも、 年末が近づくにつれて一人また一人と帰国し、結局、私一人がトルコに残り、越年することとなった。
 冬のアンカラは寒く、そのうえ家庭の暖房に石炭が使われていたのでスモッグが酷く、とても冬休みの間中とどまりたい場所ではなかった。そこで、この休みを利用して、エーゲ海に面したイズミルに行き、正月を迎えることにしたのである。

 大晦日の夜、滞在しているホテルで年越しのパーティーが開かれた。宿泊客だけでなく、町の人達も来るという。部屋にこもっていても仕方が無いのでパーティー会場に行ってみた。
 一人でワインを飲んでいると、さびしそうに見えたのだろう、隣のテーブルにいた上品な中年の夫婦が、
「日本の方ですか」
と声をかけてきた。雑談をしている内に、是非、正月に家に遊びに来いと誘われた。新年早々、訪ねてみると立派なお宅で、大いに歓待された。

 そんな想い出のあるイズミルが、地震で大きな被害を蒙っているとのニュースが入ってきた。50年前のあの夫妻はすでに居ないかも知れないが、親しみを覚えるトルコの人たちは、どうしているだろうか。

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