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「800字文学館」

ヒゲと肝臓

大森 海太

 会社を引退してブラブラしていたころ、フト思いついてヒゲを伸ばしてみることにした。頭髪の密度からすればチョボチョボのものかと思っていたら、存外しっかり生えてきたではないか。これならいける。そうだ、クラーク・ゲーブルのバトラー船長みたいな格好いいマスターシュ(口ヒゲ)にしてはと考えた。ところがあいにく、ビールの泡や食べ物のカスがついて汚らしいということで、カミサンの許可が下りず、やむなく現在のビアド(あごヒゲ)で我慢している。
 最初は伸びたヒゲを都度ハサミで切り整えていたが、そのうち専用のトリマーというものを見つけたので、3日に1回位、7ミリに刈り込んでいる。ヒゲの色はごましおで最近は少し白さが増してきたものの、残念ながら雪のような美髯というには程遠い。

 この10年余りの間でヒゲを剃り落としたのは1回だけ、8年前の手術のときである。胆管がんで開腹手術をするのに、何でヒゲを剃らなければいけなかったのか、あとでナースに尋ねたところ、6時間に及んだ大手術の間、鼻や口には何本もチューブが差し込まれ、口の周りにはいくつかの器具などをバンソウコウで貼りつけたりするので、ヒゲが邪魔になるのだそうだ。
 それにしてもこの肝内胆管がんというやつはなかなか見つけにくいものらしく、ドックで早期に発見され、すぐに処置されたのはまったくの幸運であった。病巣の周りの肝臓を20%も切除したそうで、あとで見せてもらったカミサンは、お肉屋さんのレバーそっくりだったわと言っていた。
 肝臓は人間の臓器でただひとつ、トカゲの尻尾のように再生するもので、2~3ヶ月後に超音波でチェックしたところ、すっかり新しいのが生えてきたとのことであった。お蔭でアルコール解毒機能にはあまり影響がなく、飲みくたびれた肝臓の代わりにフレッシュな奴が登場したなどと冗談が言えるくらいである。

 コロナで外出できず、無聊でヒゲを撫でまわしながら、晩酌に浸る毎日である。

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