昭和十七年の幼き記憶
豊島園がこの夏をもって九十四年の歴史に幕を閉じた。このニュースを見て昭和十七年、四歳時の記憶が急に蘇ってきた。日の丸をつけた可愛い飛行機が頭上をグルグル回っているスナップ写真のような光景だ。放射線状に伸ばした腕の先からロープで垂らした乗り物を回す飛行塔である。
「勝ってくるぞと勇ましく……」と得意になって歌う軍国幼児だった私は必死に「乗せて!」とせがんだが、閉園間際で駄目だった。その時の悔しさは七十八年たった今も思い出すシーンにこびりついている。
豊島園が引き金となり、明治神宮外苑の絵画館前の池と上野の西郷さんが頭に浮かぶ。父が写真を撮ると言い、私一人を其処に立たせた時のことである。尤もこの二つには実記憶とアルバムの写真が混じり合っているかも知れない。
後年に母から聞いた話だが、これらは予備役士官だった父が姫路の部隊へ召集を受け、着任前に会社勤務地の長崎から家族を連れ母の実家のある東京へ旅した時の事だったという。さらに長崎への帰途の記憶も断片的に浮かび上がる。
私は伊勢神宮の長い参道を父に抱かれ歩いていた。ところが突然下に降ろされる、向こうから軍服姿の兵隊さんが来るので、敬礼を返すためだった。桃山御陵の広く長い石段を勢いよく一人で登り出したが、足が上がらなくなった思い出がつづく。夜中に関門連絡船から鹿児島本線の列車に乗り継ぐために、長いホームを母に手を引かれ走ったのも忘れられない。そのとき小学生だった兄と姉は席取りに先を急いで駆けていた。
十七年の暮に関門トンネルが開通し、東京・長崎間を寝台特急「富士」が走るようになる。翌年に海軍士官だった叔父の結婚式が芝の水交社で催されることになった。学校のある兄と姉は留守番役、母は私一人を連れて出掛ける。寝台車のなかで母を独り占めする嬉しさは格別だった。
その二年後、自宅で被曝する。この瞬間を境に私の記憶もスナップ写真から鮮明な連続動画に変わっていく。