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「800字文学館」

『一月物語』平野啓一郎著を読む

新田 由紀子

 二百ページに満たない文庫本の表紙には、薄曇りの空のような地に揚羽蝶が一匹羽を広げている。どんな話が展開されているのだろうと心が躍る。
 「ひらゝゝと舞ひ行くは、夢とまことの中間(なかば)なり ― 透谷」。物語の前におかれた引用がこの小説の全容を表わしているのだろうか。
 時は明治。持病の気鬱から旅に出た書生が、熊野の山中で毒蛇に噛まれて療養するうち、神経の病が高じて夢と現実が交錯する。万古の熊野の自然は妖しく美しく、夜ごと美女の艶姿を夢に見て心を奪われつつ、風土の奇談にからめとられていくという幻想的・耽美的な物語である。

 旅立ちの新橋駅で書生は見知らぬ令嬢と目が合い、「あら、…桜が散ってしまっても吉野は綺麗なところですわ」の言葉に惹かれて旅先を決めるが、道中は何とも謎めく。熊野詣の奇怪な老爺と道連れになって吉野を乗り過ごすと、時間と空間は錯綜し始め、書生は一人鴉揚羽蝶に導かれるままに、熊野古道を外れて山中に迷い込む。
 蛇に噛まれた傷を山奥の寺で癒すうち、書生は月下に水浴びをする美女を繰り返し夢に見る。寺では癩の老婆をかくまっているというが、彼は夢の女がそれではないかと思いつく。麓の旅籠で女将の語る土地の奇譚は、村の娘が蛇に犯されてできた女児が、人跡未踏の寺に預けられているというのだ。
 「俺は何時しかこの地の激しい時の流れの中に、足を浸してしまったのかもしれない」
 奇譚は更に、蛇の娘と目を見交わした者は命を落とすという。蛇毒に神経を冒された彼は山奥の寺に駆け戻り、夢かうつつか、「来ないで」と振り返る裸身の美女を目にして、その場で熊野の朽ちた森の土に還って消える。うつつの世に残るのは黒髪の美女か白髪の老婆か。
 物語は、天誅組・廃仏毀釈・十津川氾濫など、この地の史実を織り込んで、古語・漢語・雅語を駆使して目もあやに擬古的な文体で語られる。手にして置く能わず、文章に酔いつつ物語世界に心を解き放った。

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