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「800字文学館」

祖い谷やのかずら橋

斉藤 征雄

 同じ国民が二つに分かれて争うことが不幸なことはわかりきっているのに、世界中でその歴史が繰り返される。
 歴史的には日本も例外ではない。明治維新の戊辰戦争、関ヶ原の戦い、応仁の乱、さらには南北朝の動乱に至っては六十年にも及んだ。その中で限りなく多くの血が流され、社会は分断された。

 わが国で、国を二分した戦争の初めは源平の争乱である。土地に結び付いた新興勢力である武士団の源氏と平氏は覇権をめぐり争ったが、最後に平氏追討の院宣を手にした源氏が、平氏を壇ノ浦に追いつめて安徳天皇もろとも海中に沈めて勝利した。
 壇ノ浦の一カ月前、源平は屋島で戦った。那須の与一の扇の的や義経の弓流しなど『平家物語』の語る逸話は面白いが、平氏が大敗したこの戦いが源平争乱の実質的な勝敗を決めたのである。

 敗れた平氏の一部は四国山中に逃れた。追手に見つかれば容赦なく殺される。それを恐れて讃岐山脈を越え、剣山山系の奥深くまで逃げ込んだ。徳島県祖い谷や地方である。
 一行には、女、子供も含まれていた。そして山深い地に住み着いたのである。食べる物も家もなく始まった生活がどんなものであったかは想像に難くない。おそらく飢餓に耐え、身を寄せ合って寒さを忍んだことであろう。
 唯一の望みは平氏再興だった。それを秘かに胸に秘めて、ひっそりと目立たずに暮らした。その思いがあるから敵の追手が恐ろしい。そのため生活圏にかけた橋は、いつでも切り落とせる「かずら」で作ったのである。
 驚くべきことに、その思いは代々子孫に受け継がれ数百年にわたって続いた。外界との交渉を断ち、差別にも遭いながら、彼ら独自の生活様式を守ったと思われる。そうした中で、かずら橋も三年ごとにかけ替えられながら現代まで守られ続けたのであった。

「行っていいのかなあ」と少し気が咎めながら、GoToトラベルで四国を周った。険しい山奥に今も残る祖谷のかずら橋を恐る恐る渡りながら、歴史の逍遥に遊んだひとときだった。

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