政治・経済・社会
基地はごみ処理場か
沖縄の基地移転問題に関する報道を聞いていると、ごみ処理場を建設するときの騒ぎを連想してしまう。誰もが必要と考えながら、自分の家の近くだけには作って欲しくない、というのが住民の率直な気持ちである。
人間が生活する以上どうしてもごみは出てくるもので、処理場はなくてはならない。しかし、米軍の基地は絶対に日本の国内に必要なものなのか。議論の分かれるところだ。
多くの人は、日本の国を守り戦争を抑止するために、自前の軍備を強化するよりも、アメリカの庇護のもとにいたほうが良いと考えているようだ。もしも、そうであるならば、これまでのように沖縄だけに負担を強いるのではなく、国民全体がどうしたら平等に負担することができるのかを考えるべきである。
確かに、この問題に対する鳩山首相の取り組み方は適切だったとは言えない。しかしマスコミは、彼が宣言した期限までに移転先を決められるかどうかいう点にばかりに焦点をあて、報道しすぎている。重要なのは、問題の根本に立ち帰り日本の安全保障をどうすべきか、日米の関係を今後どのように持ってゆくのかという大きな視点からの論議である。
最近になって、やっと本質的な議論が出てきたような気がする。例えば、文芸春秋5月号の記事である。すでに読まれた方もおられると思うが、座談形式で日本の識者二人とアメリカの知識人二人が、この問題を過去の経緯を捉えながら意見を述べ合っている。アメリカ側の一人はハーバード大学の教授、もう一人はMIT教授のジョン・ダワー氏だ。
ダワー教授は、「これまでの自民党政権時代の政治家は、日本の立場に立った本音の主張をするのではなく、ワシントンの顔色をうかがいながら発言していた、と私は思っています。その結果、日本はアジアという舞台の主役の座を中国に譲ってしまった感も否めない」と述べ、鳩山政権が普天間基地問題に関して、アメリカの望む案に臆せずNOと主張したことは、評価しても良いとまで言っている。このような考えを持っているアメリカの知識人がいることを我々は知っておくべきである。
日米間にいたずらに波風を立てる必要は無いが、日本はもっと自信を持て自己を主張すべきである。ただし、その為には日本国として、自国の安全保障をどう確保するのか、国民的な合意が形成されていなければならない。
1960年の安保改正からちょうど50年が過ぎた。国会議事堂前での激しいデモの中、自分のすぐ近くで学友を失ったことを思い出しながら、日本のあるべき立ち位置について思いを巡らせている。