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エッセイ・コラム 日常生活雑感

黄昏どきの風景

西川 武彦

 家の建替えなどで猫の額と化した庭に樹齢80年の赤松がある。73歳の筆者が生れる前、昭和の初めに造成された宅地で、その他に生き残っているのは棕櫚、躑躅、青樹といったところか。廻りの古い家々の植栽もおなじようだから、当時の流行かもしれない。背丈の伸びはとうに終わっているものの、春には若葉を吹く、四方に伸びる枝の緑は今でも濃い。鼠色のバーコードが年々薄くなっていく筆者としては羨ましい限りだ。年に一ニ度、植木屋さんに剪定される。理髪と整体である。
 筆者は十年も前に理髪店を卒業した。大枚を払う価値がないと判断したのだ。老妻に頭を下げて、「剪定」してもらう。いつだったか、赤松の剪定と、バーコードの「剪定」がガラス窓を挟んで同時進行したことがあった。向こうは同年代の植木屋さんがたっぷり時間をかけているが、こちらは数分で完了する。たまに注文をつけると、「いっそのことユル・ブリンナーにしたら」と返ってくる。敵は鋏を持っているから、思わず頭をすくめてしまった。

 すっかり家事を仕切っている連れ合いは長生きしそうだ。日本人の平均寿命は、女性が86歳、男性は79歳という。筆者は家人より7歳年上である。20年前に胃ガンで大きな手術もしているにもかかわらず、相変わらず飲んだくれている。彼女には先が見えているようだ。還暦を迎える頃から、外出がどんどん増えた。一人になったあとの過ごし方を探っているのだろう。月曜から金曜までぎっしりスケジュールが詰まっているらしい。旦那が何時なんどきいなくなっても、一人で過ごせるよう段取りを整えているのに違いない。結構なことではある。
 振り返って筆者の方は、古希を過ぎる頃から、物忘れや可笑しな言動が顕著になった。外出する際、鍵をかけたか否かが心配で逆戻りする、会合の日程を間違えて誰もいない会場で呆然とする、反対方向の電車に飛び乗る、気が急いて左手にお箸、右手にはペンを持って何をやるのか分からなくなる、エトセトラ。昨日など、100円の歯ブラシを求めて、500円玉のつもりで10円玉を出してお釣りを請求し、やんわりと間違いを正された。黄昏どきの風景である。

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