随想
枯草のざわめき;「苦しいときの仏だのみ」
NHKテレビ総合で水曜日の夜放映中の「歴史秘話ヒストリア」を時おり観る。
案内役の渡辺(旧姓黒田)あゆみアナウンサーは、昔から、そう「生活ほっとモーニング」のころからのファンだ。最近は油が乗って、この番組もはまり役を楽しんでいるようにみえる。
7月14日の番組では天平のスーパーウーマン「光明皇后」が取り上げられた。いつもは、渡辺アナのなぜかど派手な着物姿に違和感を覚えていたが、今回は秘話の主人公が名前通りのオーラーを放ちまくった女性であり、主役をさしおいて案内役が目立ち過ぎることはなかった。
余談はさておき、平城遷都1300年祭でにぎわう中、天平時代を実質的にリードした光明皇后(701~760、藤原光明子)にスポットライトをあてたのは、時宜にかなった好企画で関心が募る。
同い年の夫、聖武天皇は寿命こそ55歳で短命ではないものの、病弱で気力も乏しく、公私にわたってしっかり者の妻を頼りにしていた姿が、随所に映し出されていた。光明皇后は、自ら悲田院や施薬院を設置し、巨大な新薬師寺(最近奈良市で見つかった)を建立したばかりでなく、聖武天皇の国家的な大事業とされる国分寺の設置や大仏造立も彼女がプロモートしたと明かされる。さらに体調を崩した聖武が孝謙(娘)に譲位して出家すると、難局を切り抜けるため光明皇太后が前面に出て国を治める体制を創った。番組のサブタイトルは「妻の私が支えねば」だが、支えるのは夫を飛び越して国そのものだからすごい。
番組は、光明皇后のデビューから大活躍の様子、そして国の根幹にかかわる政治改革を図るところまで、三つのエピソードに要領よくまとめてあり、さすがはNHK、勉強になりましたと感心するところだが、今回はちょっと違った。
じつは勉強嫌いの私にしては珍しく、光明皇后については前もって少し知識を得ていた。6月末にJR東海が主催する「奈良学文化講座」に出席し、立命館大学の本郷真紹(まさつぐ)教授から、―光明皇后の果たした役割―についての講演を聴いたばかりなのだ。その講座の司会者が渡辺あゆみアナ。何を隠そう、そこで「こんどあたしの番組で光明皇后をやるから観てよ」といわれてチャンネルを合わせたわけである。
ふたたび余談はさておき、本郷教授の話を私なりに解釈すると、天平文化の花開く聖武朝に至るプロセスを設計したのは持統天皇(645~702、天智天皇の娘にして天武天皇の皇后。叔父の嫁。ややこしい)、その監理を託されたのは藤原不比等(659~720、鎌足の息で光明子の父)で、二人の設計・監理でこの時代を作った。壬申の乱(672)の骨肉の争いで辛酸を嘗めた持統天皇は、兄弟争いの混乱を未然に防ぐため直系子孫への皇位継承を強く望み、そのための環境整備を行うとともに、絶大な信頼をおく藤原不比等に直系継承の監理役を担わせたのだ。
実際は持統が望む直系男子はことごとく病弱で紆余曲折があったものの、間に中継ぎの三人の女帝を挟んで草壁皇子―文武天皇―聖武天皇とつなぎ、持統天皇の意志を貫く。不比等はこの間、持統が敷いた基本路線から外れないように政治的防波堤の役を果たして、右大臣の位までのぼりつめ、天皇の外戚となって藤原氏の勢力を強めた。
こうした背景のもと、聖武天皇の立太子のときに藤原光明子は一族の期待を担って入内した。番組では、才色兼備で働き者の光明子が庶民の人気をかちえ、聖武天皇に能力をかわれて共に政を行うパートナーとして皇族以外の初めての皇后に引き立てられた、とされている。
だが、それだけでは数いる夫人たちを差し置いて、しきたりにない臣下出身の皇后になるのは難しい。当時左大臣であった長屋王は血筋もよく弁も立ち、藤原氏にとって煙たい存在であった。その彼が冤罪で自殺に追い込まれてしまう(729長屋王の変)。光明子の立后を図る藤原氏の陰謀の犠牲といわれている。
どうにか光明皇后が誕生したものの、天平の世は飢餓や疫病が頻発する多難な時代だった。身内でも期待の長男は夭折するし、後ろ楯の藤原四兄弟は相次いで疫病死(長屋王の祟りか)するなど不幸続きで、光明は仏にすがるようになる。功徳を積めば救われるという仏教の教えに従い、彼女はまず民衆救済に力を入れ、前述の悲田院や施薬院の設置を行った。しかし、弱者や病人を救うだけでは限りがある。光明皇后は、さらに進んで国家社会を安定させるために、国造りの中心に仏教を据える決意をかためた。その様子は映像でうまく紹介されている。
一方、聖武天皇のほうはどうだろう。「妻がグイグイ引っ張って二人三脚で仏教によって国を治める事業を進めた」と声を強める渡辺アナの案内を聞くと、賢妻にダメ亭主と見下されたようでよそごとながら引っ掛かる。確かに番組の後半で、後継争いに端を発した藤原氏と反対勢力の激しい抗争の中、聖武天皇の言動は(最近の首相たちのごとく)ぶれまくって混乱を招き、ついに自分がダウンしてしまった様子を見せられると、弁解は難しいと思うが。
再度、本郷教授に登場願おう。ただし以下の一文は私の理解の範囲である。
神祇信仰が第一国教であったこの時代、最高の祭祀権者である天皇が仏教に帰依することは筋が違い、前例がなかった。仏教興隆に努めたあの聖徳太子(622没)も皇位にはついていない。臣下出身で身軽な皇后とは立場が違うのだ。
聖武天皇は、社会不安を鎮めるために一足飛びに仏を頼ったわけではなく、慣例に従い課役免除や振給を実施するとともに、懸命に神祇に祈った。やるべきことはやったのだ。しかし効験は得られなかった。それどころか、社会が乱れることは天皇の責任とされ、神罰が下るという。神道はそんに厳しいのか。追い込まれた聖武は神仏の間で大いに悩んだだろう。
じつは、最高の祭祀権者である天皇の悩みと仏教帰依の願いは、地方を治める神祇の祭祀権者たちにも共通する悩みと願いでもあった。神々も苦しいときは仏だのみをしたかったのである。
このころから主として神祇側の働きかけで神仏併祀の動きがはじまった。代表的は例が神社の境内など設置する神宮寺の相次ぐ建立。神が仏に帰依して、神の威光を回復し、五穀豊穣を実現することなどを願うと聞く。その後神宮寺の建立は諸国の神社に広まるとともに、わが国独自の神仏習合思想が進展し、明治になって神仏分離令が出されるまで、約千年間日本人の心の拠りどころとして続いた。
その端緒を開いたのが聖武天皇の仏教帰依と考えると、彼は大変立派なことをしたのではないか。一度、渡辺アナのご意見を拝聴してみたいとひそかに思っている。