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エッセイ・コラム 体験記・紀行文

瀬戸の海

大平 忠

 昭和20年2月から約3年間、7才から10才まで、東京を離れ四国の香川県で疎開生活を送った。最初は母方の祖父母と一緒に善通寺に住み、半年で愛媛に近い和田村に引っ越した。しかし、和田村も1年半でまた善通寺に戻り、残り1年をそこで過ごした。落着かない引っ越し続きの疎開生活であった。和田村へ行ったのは両親の故郷で、母の従弟の家がたまたま空いていたのである。ここに父と兄たちとも離れて母と2人だけで住んだ時期があった。
 家は集落の外れにあり、周囲は田圃と小さな祠のある森で、隣の家といっても声の届く距離にはなかった。夜になると森に住むみみずくがときどき鳴いた。みみずくの声を聞くと、初めての土地にきた心細さが一層身に沁みた。
 村には隣の集落に父の兄と従弟の家がそれぞれあり、両家ともよくしてくれたが、慣れぬ村の生活に母は何かと気苦労も多かったようだ。
 私はといえば、引っ越してきた当座は遊び友達もいないので、学校が終ってからは家で独り本でも読むしかなかった。
 そんな私を見かねてか、母は、歩いて15分ほどの海辺へよく私を連れ出した。豊浜という遠浅の浜は、人っ子一人いなかった。貝殻をよく拾った。はるか水平線の彼方に夕陽が沈む頃、空と海の眺めは素晴しかった。海辺に行くたびに、空と海の色合いは異なっていたが、景色はそれぞれいつも美しかった。夕陽を見るときの母は、何も言わずただ空と海に見入るばかりであった。
 母は子供の時分、この海辺・豊浜の東に位置する、観音寺の浜の琴弾公園でよく遊んだという。黙っているときの母は、幼いころのことを思い出していたのか、それとも散り散りになっている家族の行末を案じていたのであろうか。
 やがて、学校でも友達ができ、放課後は家の外で遊ぶことが多くなった。長兄も復員してきた。母と二人で海辺へ行くことも、いつの間にかなくなった。
 そのうち、空家の主の母の従弟が戦地から戻ってくるというので、和田村から善通寺にまた移ることになった。祖父母と暮らして1年後の昭和23年の3月、父の仕事も落着き、東京に家族を呼び戻し一緒に暮らすことになった。3年にわたる四国での疎開生活は終わった。東京で暮らす家の前に立ったときの嬉しそうな母の顔を覚えている。

 その後母は亡くなるまでに、四国を3回訪れている。最後のときには、中学生の孫を連れて観音寺の琴弾公園から瀬戸の海を眺めたという。

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