随想
枯草のざわめき;「シルバーパスの効用」
数年前まで通っていた渋谷の文章教室の仲間に私より五つほど年上のKさんがいた。彼女の住まいは松涛の屋敷町、昔縁あって長野から嫁いできて以来そこに住んでいるという。教室では日常生活の細々した運びを巧みに掬い上げたり、時の移ろいに浮き沈みする事柄に好奇の目を向けたりしたエッセイを書いておられた。自分の心が動いたことを慎ましやかな表現ながら沁み入るように伝える、そんな佳作を何編か憶えている。
ところが、ある秋の日の教室でKさんが発表された作品は、文章の調子がいつもと違って弾んでいた。七十になってシルバーパスを交付されたので、渋谷からバスを乗り継ぎ、かねて行ってみたいと思っていた白金の東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)を訪ねたという話。内容はさしたることはないが、Kさんは、はじめて乗る路線バスの乗場がわからず、時刻表も当てにならずで、迷い悩んでやっと目的地に辿り着いたことをさも楽しそうに綴っておられた。
フリーパスで都内のバスと都営地下鉄などが自由に乗れる。その嬉しさは分かるけれどそれほどのものだろうか、Kさんは裕福なのに。正直その時はそう思った。ちなみに私は、定年以上退職未満でまだ電車の定期券を持っていたころである。
それから2年ほどして私は卒サラし、しばらくパスなしの暮らしをした。そのころ私鉄・都営共通のプリペードカード「パスネット」が発売されて、いちいち切符を買う不便はなかった。ただ、回数券と違って前払いなのにオマケがないのが不満だったが。
そのうち私もシルバーパスを取得できる年になったが、直ぐには申し込まなかった。自分の行動範囲内ではバスより電車の方が便利な場合が多いのだ。電車の便がわるいときはバスを使うが頻繁ではない。それに住民税の課税者は年間2万円余の費用が必要だし、割引率のよいバスカードが一方にはある。その私が一年後にシルバーパスの発行を受けることにしたのは、バスの便がいい病院や施設に通う用が増えてお得感がでたからである。
今の私は、バスのフリーパスを持ったからといって、バスが通るところはすべてバスで行くわけではなく、電車とバスが平行して走っているところでも急ぎのときは電車を使う。基本的にバスは補助手段として使うので、別に行動半径が広がることはないが、行動の自由度は確かに高まった。定期券と違って通勤の途中駅だけでなく、最寄り駅に先にも自由に行ける。電車を乗り継ぐときも、バスが通っているところならターミナル駅を無料でショートカットできる。私の場合、井の頭線や小田急線に乗るのに最寄り駅の三軒茶屋から渋谷に出なくてもバスで下北沢に行けばいいし、東横線に乗るには家の裏の路を祐天寺経由目黒行きのバスが通っている。
話をKさんのことに戻して、シルバーパスをはじめて手にしたときの彼女の浮き立った気持が、今なら分かるような気がする。思うに彼女は勤めの経験がなく定期券を持ったことがないのではないか。持ったとしても若いころのごく短い間だったろう。損得の問題ではなく、定期券を使って自由に動くことに長い間憧れていたのかもしれない。
飼い馴らされて飛べなくなった鶏にある日突然新しい翼が生えて、塀を越えて庭の外を自由に飛びまわれるようになった――、そのときのKさんの喜びを、自由を得た鶏のそれになぞったら叱られるだろうか。
中高年の女性の旺盛な行動力が目立つようになった、と世にいわれだしてからすでに久しい。しかし気持はあってもなかなか行動に結びつけられずに、〈奥様〉で止まっている人も結構いるのではないか。
シルバーパスが、ともすれば出不精になり勝ちな高齢者の背中を押して活性化させる効用があるなら結構なことである。財政難を理由に反対する向きもあるかもしれないが、資産を持つ高齢者、ことに圧倒的多数派のオバアサンたちが活発に動けばそれなりの経済効果も出るのだから、悪い話しではあるまい。