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エッセイ・コラム 文学・言語

「現代に蘇るドストエフスキー」

都甲 昌利

 東京外国語大学学長の亀山郁夫氏が新しく翻訳したドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(光文社発行)が販売部数100万部を越え今話題になっている。
 作家の池澤夏樹氏は「世界文学を読みほどく」(新潮選書)のなかで、また直木賞作家の深田佑介氏も講演で『「カラマーゾフの兄弟』は世界文学の最高峰だと絶賛している。

 読者は20,30代の若い女性に多いという。女性層に人気があるいうので、宝塚歌劇・雪組が東京特別公演として、ミュージカル「カラマーゾフの兄弟」を上演した。まさに社会現象である。ロシア文学の古典が現代に蘇ったといえそうだ。
 ドストエフスキーは社会不安や閉塞感に満ちた社会状況の中で読まれると言われている。と云うことは現代の日本にとって喜ばしいことなのだろうか。
 『カラマーゾフの兄弟』は放蕩息子の長男、ドミートリ、インテリで無神論者の次男、イワン、そして誰からも愛され純真無垢な三男、アリョーシャの兄弟が父親殺しをめぐり壮大なスケールで展開する物語であるが、その背景には19世紀のロシアの政治、社会状況がある。農奴解放後のロシアは国家体制が混乱し、犯罪、性の乱れ、殺人などが増加、皇帝を頂点とする貴族階級による圧制、賄賂、腐敗が横行し、貧富の差は増大し、暗殺、親殺し子殺しといった社会不安の真っ只中にあった。ロシア人民は皆社会の停滞や閉塞感を感じながら革命を惹き起こすに充分なエネルギーを持ち始めていた。

 現在の日本を見ていると、19世紀末のロシアに似ているといえないだろうか。政治への不信、格差の拡大、役人の汚職、何の理由もなく人を殺す、いじめ、セクハラ・パワハラ、60年も続いた自民党の支配の後、民主党政権が誕生したが、国民の生活はますます苦しく、若者は未来に希望を見出せない。日本中に閉塞感が充満している。救いようのない終末的或いは絶望的な現在の日本の現状。
 『カラマーゾフの兄弟』の中には様々な人物が登場する。読者はその中に登場する人物に自分を見出して感動を受け或いは絶望しながらも、明日への希望を見出すのだろう。

 亀山氏は更に続いてドストエフスキーの『罪と罰』を翻訳された。こちらも売れ行き好調と聞いている。頭脳明晰な貧乏学生、ラスコーリニコフが高利貸の強欲な老女を殺害するが、社会の正義のためなら、貧乏人を苦しめている高利貸しを抹殺することは許される。悪を排除することは善行だという彼の犯罪哲学に拠ってだ。
 この哲学は間違っていることは明らかであるが、現に今の日本にも正義のために人を殺す者がいる。もっと悪質なのは理由もなく善良な市民を殺害する。「誰でもよかった」、「気がむしゃくしゃしたからヤッタ」というのはそれだ。しかし、ドストエフスキーが本当に訴えたかったのは、殺人を犯したものが背負う罪の意識である。ラスコーリニコフが一生煩悶し罪の意識に苛まれる苦しさを描いている。追われた獣のようなラスコールニコフがふとした縁でソーニアを知り愛に目覚める。ソーニアのキリスト的無私の愛に感動し、彼女を深く愛することが、どんなに価値なく見える自分自身にも、犯し難い貴い閃きのある事を覚るに至って初めて彼は救われた。そして、彼は心静かに法の裁きを受ける。
 恋愛に結婚に或いは又仕事に子育てに悩む多くの20代、30代の女性達はいま、ドストエフスキーを必要としているのかもしれない。

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