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エッセイ・コラム 随想

枯草のざわめき;「老人と自転車」

濱田 優(ゆたか)

 二(ふた)月前、自転車を失くした。
 ブリジストン製の愛車だが、7年前買った古いママチャリだから別に惜しくはない。……嘘だ。以前娘が盗られた自転車を駅前で見つけたことを思い出し、数多(あまた)の自転車が置かれているところを見かけるたびに、自分のはないかと見回すのだから未練がましく、我ながらいじましい。

 加えて、この事件ではもう一つショックを受けた。
 その日の夜遅く、買い忘れた物を思い出して近くのスーパーに行った。普段は歩いて行く距離だが急いでいたので自転車で行く。あとから考えると、別にあわてて買う必要はないのにその時は気が急(せ)いた。
「あんた、自転車はどうしたの?」
 翌朝、家内が玄関先を掃いていて自転車がないことに気づいた。
「あっ、昨夜(ゆうべ)買物に乗って行って忘れてきた」
「また……、まあ今日買う物もあるから荷物を載せて帰ってきたら」
ときたま自転車を置き忘れるから、家内は落ち着いている。しかし、私は心穏やかではなかった。鍵がいつもの小箱に入っていないのだ。いけない、鍵を掛けなかった。

 急いで自転車を取りに行った。24時間営業の店で朝も開いている。悪い予感が当った。店の前に停めた私の自転車がない。整理係のおじさんをつかまえて聞くと、昨日の夜番が店の裏の駐輪場に移動させたのではないか、という。この店の前は建前駐輪禁止だけれど、お客さんが買物をする間くらいは目こぼしをしてくれる。それ以上置きっ放しの自転車は裏手の有料の駐輪場に運ぶことになっているのだ。すぐそこに行ったけれど私の自転車はなかった。最悪だ。誰かが乗って行ったに違いない。

 実をいうと、私は買い忘れた物を一品買うだけだから時間は掛からないと考え、鍵を掛けなかった。だから、買物を終えてすぐ自転車がないと気づいたら、自分の判断が甘かったと、変な話だか納得がいく。だが実際は、買物を済ませたあとの記憶が全くないのだ。自転車を放置したまま歩いて家に帰り、盗まれたと考えるのが自然だが、確信はもてない。
 現役のころにも、泥酔して家にどうやって帰ったか全然覚えていないことはあった。しかし今回は素面である。いよいよボケがひどくなったか。私は自信喪失に陥った。

 自転車は手軽で便利なうえに健康にもよく環境にやさしい、と持て囃されている。が、本当だろうか。盗まれた腹いせでいうわけではないが、健康や環境のためなら歩くに如(し)くことはない。手軽で便利な点はおおかた認めても、雨の日は駄目だし、そうでなくても自転車は意外に厄介な乗り物でもある。
 まず便の良いところに駐輪場が少なく、いつもいっぱいで、停め置く場所に苦労する。良くないとは分かっていてもいきおい不法駐輪し、運が悪いと撤去されて罰金を取られる。私も昨秋駅の近くに停めた自転車を持って行かれ、3千円払って返してもらった。いつの間にか昔の倍額になっている。

 自動車を避けながらの走るのも煩わしいし怖い。広い道路で左端に駐車違反をしている車の列の横を走るときも命がけだが、近頃は住宅街の狭い道も危ない。カーナビが発達して裏道も案内するので車がどんどん入ってくる。
 家から商店街に行く途中に一方通行の小さな坂道がある。以前はめったに車が通らなかったのに、幹線道路のバイパスとして知られるようになったのか、近頃はひっきりなしに車が通るようになった。

 そこは急な坂ではないが、自転車を漕いで上るのは結構骨だ。後ろからエンジン音がし、やがて振動が伝わる。神経を後方に集中させると音や振動でだいたいの車種がわかるから、オートバイや軽自動車なら端に寄ればいいが、中型以上だと電信柱の陰などに自転車を停めて避難する。もともと私は自転車に乗るのが下手でよくふらつくから、追い越す車と路肩の狭い間を真っ直ぐ走り続けて車をやり過ごすのは難しいのだ。
 ところで、最近の乗用車は静かになり、ことにハイブリット車はエンジン音がしないことがある。先だって音もしないのに後ろに何か圧迫感がして振り返ると、プリウスが迫っていたので慌てた。こんなひやりを体験した人が少なからずいるのだろう、新聞で車両接近通報装置の新発売の記事を見た。これまで静粛が高級車の証とPRに努めていたのに皮肉な話ではある。

 ともかく自転車はぶつかったら一番弱い車両だ。乗るときはしっかりと五感を働かせて危険を避け、自分で身を守らなければ誰も助けられない。たとえボケなくても、感覚が鈍ってきた高齢者がいつまでも自転車に乗るのは考えものである。

 昔、身近なところで、家族ばかりか親戚も心憂いたことがある。
 無類の自転車好きの父は、七十半ばを過ぎても自転車に乗って遠くまで出かけた。それも重くて頑丈な、もちろん変速ギアなぞ付いていない実用車で。
 父の通夜の席で、小松川の従兄弟が思い出話を語った。
「伯父さんが自転車でうちに来たときはびっくりしたなあ。危ないから帰りは電車で、といっても駄目。平気、平気と笑って三軒茶屋まで自転車で返るんだもの、安着の電話があるまで心配したよ」
「申し訳ない。親戚にまで心配を掛けていたなんて知らなかった。ぼくも姉さんたちも、電車賃くらい幾らでもあげるから遠出はしないように、と何度頼んでも聞いてくれなかったんだ。あんまりいうとそんなに年寄り扱いをするなって、逆に怒り出す始末で困ったよ」

 私たちは本当に父の身を心配した。だが、本音はそれだけではない。父が大怪我をしたら母が困る。私たち子どもはみな家を出て、仕事や子育てに忙殺されていた頃だったから、困った母を助けることが難しい。自分たちの生活を守るためにも父には事故を起こしてもらいたくなかったのだ。
 幸い父は事故に遭わなかったが、もしもあの頃……と考えるとぞっとする。

 時はめぐって自分が当時の父の歳に近づいてきた。
 たまに案じるようなことがあっても、今のところ私は元気だし、自転車に乗っても近場を走るだけで、父のような冒険はしない。しかし、遠からず自転車に乗ること諦めざるを得ない日が訪れよう。
 幸か不幸か、子どもたちに「年寄りの冷や水」とも、お小遣いには不自由させないから自転車に乗らないでとも、まだ言われていない。私たちが父の心配をしたように、動機は何であれ子どもたちが私のことを心配するようになるまで、もう一乗りすることにするか。
 結局、これが最後と考えて新車を買い、私は安全第一を心掛けて日々自転車に乗っている。

(了)

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