体験記・紀行文
またなの?
麹町の日本テレビの裏にひっそりと佇む中高一貫のミッションスクール、これが私の母校だ。晩秋になると同窓会会報が送られてくる。いつもなら斜め読みしてポイだが、今回は「創立一四〇周年」の文字に眼がとまった。
明治三年(一八七〇年)、築地居留地で宣教師カロゾルス夫人が起したA6番女学校がその源流だという。在学中は気にも留めなかったが、アーネスト・サトーの日記やイザベラ・バードの旅行記でも見かけた「築地居留地」の名に、今は歴史の重みとほのかな感慨を覚える。
小さな思い出がふっと浮かびあがった。母校の朝は講堂での礼拝から始まる。プロテスタントの精神に基づく教育理念には心服するが、信者でもないのに頭を垂れ、目を閉じて神に祈ることは面映ゆい。時には目をあけて皆の祈る姿を観察した。遥か向こうで同じようにきょろきょろ見回す生徒を発見したときは、同胞ありと互いにニヤリ。もうひとつ困ったことに、遅刻魔の私は、講堂の一番後ろの扉から入って、衆人環視のなかを自分の席まで歩かねばならないことがしばしばだった。
ある日、新橋駅前でじりじりしながらバスを待っていると、アメリカ人のザンダー先生が「またなの?」という顔でタクシーに同乗させてくれた。彼女は久々の遅刻かも知れないが、私はこれで5連続だ。さすがにこれはまずいなと、礼拝が終わるまで教室に潜むことにした。ドアは施錠されているので窓から入る。小学生時代に木登りで鍛えた身の軽さ、窓によじ登るくらいわけもない。シメシメと思ったのも束の間、なぜかこれが担当の老先生にばれて、こってり油を絞られた。
悪いことは重なるもので、昼時になると弁当を忘れてきたことに気付く。大雑把な母の作る弁当は、箸を刺すとご飯がそっくり持ちあがるぎゅう詰めドカ弁タイプ、ちょっと褒めようものなら一週間は同じ惣菜が続いた。昼食抜きでやり過ごすつもりが老先生これを見逃さず、「皆さん彼女にお弁当を分けてあげて」とのたまう。この種の善意は十代のデリケートな心を逆に傷つける。級友たちが差し出す色とりどりの弁当を、涙のでそうな情けない思いで呑みこんだものだ。