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エッセイ・コラム 体験記・紀行文

ステージを一人占め

金京 法一

 読売日本交響楽団のサントリーホールの定期演奏会の会員になって久しい。筆者の席はオーケストラの左上で、右手に弦楽器群、正面に管楽器群、左手に打楽器群があり、正面に座って聞くのとはやや異なる音響効果がある。目の前で色々な楽器が操作されるのを見るのは興味深い。楽団員の顔も覚えて、何か個人的な親しみを感じるようになった。

 一人ちょっと変わった楽士がいる。彼女はクラリネットの首席奏者であるが、演奏会の間中ステージに座っている。演奏が始まる前はもちろん、休憩時間も楽屋に引き揚げない。練習をすることもあるが、大抵は空中の一点をぼんやり眺めて時間を過ごしている。

 同じようか情景をニューヨークのメトロポリタン歌劇場で見たことがある。オーケストラ・ピットは舞台前面の一段低い所にあり、休憩時間は譜面台の明かりも消されて薄暗い。ところが一か所だけ小さな明かりがともっているところがあり、なんとなく気になっていた。ある時オーケストラ・ピットのほうに歩いてゆき、中をのぞいてみた。かなり広い空間に椅子や譜面台や大型楽器が雑然と並べられ、およそ殺風景な空間である。ピットの中心あたりに明かりが見え、人が座っている。よく見ると中年の女性ヴァイオリニストで、譜面台の明かりを頼りに本を読んでいる。足元には温かい飲み物を入れているのであろう魔法瓶がおかれ、手にはコーヒーカップが握られている。演奏の合間に薄暗い人気の途絶えた空間に一人座り一心に本を読む女性ヴァイオリニスト、なんとも不思議な光景であった。

 コンサートホールにせよオペラハウスにせよ、ステージには百人に近い演奏者がひしめき、聴衆の席には数千人の人々が詰めかけ、時には大音響で音楽が鳴り響く。終われば雷鳴のような拍手に包まれる。これらがホールの表の顔とすれば、人気がまばらとなり、明かりを落とした休憩時間はホールの裏の顔と言えよう。二人の女性楽士は表の顔に生きながら、裏の顔の孤独感に魅力を感じているのであろうか。あるいはステージの孤独はステージの女王気分を味あわせてくれるのであろうか。

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