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エッセイ・コラム 文学・言語

白秋と朔太郎

小道 周帆

 詩人となると印象に残る人物が二人いる。一人は北原白秋で、以前に読んだ『ここ過ぎて―白秋と三人の妻―』(瀬戸内晴美著・昭和59年)での愛妻に冷たい北原白秋と童謡作家の白秋とのイメージが合わず不思議に思っていた(注:〈三人の妻〉①俊子=姦通罪で入獄して結婚したにも関わらず一年余で離婚、②章子=白秋の極貧時代を支え、栄光に向かう時に離婚、③菊子=白秋の最期を看取った最も幸せだった妻)。

 いま一人は萩原朔太郎で、彼は出身地の前橋市で詩作活動をし、当時は多くの文人が前橋に来ていたようである。これは私が単身赴任で前橋にいた際に、散歩道の広瀬川沿いに「前橋文学館」があり、その中の「萩原朔太郎展示室」から朔太郎の活躍振りを身近に感じていた。

 白秋は「光の詩人」といわれている。色彩語の多種多様、オノマトペ(擬声語・擬態語)によってハーモニーを喚起し、レトリック(修辞・美辞)を多用するなど、全ての詩法を駆使することにより多彩さを出した叙情詩人であり浪漫派の代表とされている。

 朔太郎は『月に吠える』の序で、「私の詩の読者にのぞむ所は詩の表面に表れた概念やことがらではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである」と述べている。

 北原白秋も萩原朔太郎も詩作において音楽性を重んじる詩人であったが、その表現する文体に相違するものが見られる。「光の詩人」白秋と、「感情のふるえ」ともいうべき朔太郎を、各々の代表的な詩、白秋の『城ケ島の雨』や『落葉松』、朔太郎の『黒い風琴』や『大渡橋』から具体的に見ることができる。

 白秋は韻文の響きが音楽性を持つものだとの意識を持ち続け、韻文こそが詩語としての美を生み出すものと考えていた。

 朔太郎は口語自由詩の課題であった韻律を表現し得たところにその功績がある。すなわち『黒い風琴』では、ことばに音楽的イメージを植え込み、詩人の心の響きが、詩と向き合う読者に共振・共鳴させる音楽を感じさせるというものであった。

 白秋と朔太郎は年齢的には殆ど違わず、しかも昭和17年に共に没している。但し、詩壇のデビューが8年ばかり早かった白秋が、伝統的な文体に拘り続け、新しく登場した朔太郎はそれには飽き足りず、好きなマンドリンによる影響もあって音楽そのものを採り入れようとしたところに、両者の文体の違いが生じたように思う。

 文体との関係は直接的にはないと思われるが、両者の体型を比べると、白秋は太っていて生命感があり、いかにも豊かな印象を与えるのに対し、朔太郎は痩せて目がギロつき病弱で、とても豊かさとは縁がなさそうだ。それだけに朔太郎のほうが詩作に苦悩しながらも真剣に対峙したのではないだろうか。

 詩における伝統的な作風・文体を続けた白秋に対して、朔太郎は「月に吠える」で、綺麗ごとの詩から感情を舞台とする詩への道を開いたとしての名声を得、さらにそれを進化すべく、詩の表現・文体に苦悩を伴いながらの生き様だったようで、『大渡橋』でその一端が見られたように思う。

 なお、好き嫌いでいえば、やはり朔太郎の悩める姿を応援したくなってしまう。

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