体験記・紀行文
愛情の勘定書
ニューヨークの街を流すイエロウ・キャブと呼ばれるタクシーはほとんどが個人タクシーである。道が混んでいるからと言って焦って前へ出ようとはしないし、すいているからと言って飛ばしたりはしない。万事マイペースである。自分の気分次第で愛想よく客に話しかけてくる。
飛行場へゆく道が渋滞していたが、運転手は女性談義で退屈を紛らわしてくれた。ガールフレンドにするならユダヤ女性が最高という。何しろ陽気で屈託がなく、別れる時も簡単で、愛がさめればグッバイである。最悪はイタリアの女性である。すぐ結婚のことを考える。煮え切らない態度を取り続けていると、兄貴と称するような男が登場し、脅迫まがいで結婚を迫られたりする。ガンポイント・マリッジなどに発展しかねない。話のついでに日本女性はどうかと聞いてみた。自分に経験はないが、日本女性は素晴らしいらしい。ただ別れ話が出ると延々と愁嘆場を繰り広げると聞いている。日本女性は自分が愛していれば、相手も自分を愛するのが当然と考えているのではなかろうかと。
ユダヤ女性が最高という話のついでに、ニューヨークで実際にあったと噂された話を思い出した。K社という新興の貿易商社があり、ある業態ではトップクラスの業績であった。この会社はちょっと変わっていて、業績を伸ばすためなら接待費は無制限、仕事の邪魔になるので社員の結婚は奨励しない、海外駐在員は単身赴任が原則等々現在なら問題になりそうなことを会社の方針にしていた。
エリート社員のM氏も会社の方針どおり独身であったが、海外赴任が決まって親の強い要請で結婚し、新婚の妻を置いてニューヨークに赴任してきた。異国での一人暮らしの徒然か、やがて親しい女性ができた。頻繁に彼女のアパートに行くようになり、ユダヤ女性の彼女の手料理で夕食をともにすることも多くなり、一つの生活パターンが出来上がりつつあった。ところが会社の方針が突如変わり、家族呼び寄せが可能となったのである。M氏夫妻も喜んだに違いない。問題はユダヤ女性のことであるが、正直に事の顛末を説明すると彼女も理解してくれ、お幸せにということで別れ話はついたという。
平穏な新婚生活が続いた。しばらくたってユダヤ女性から分厚い封書が届いた。M氏が彼女を訪れたことが日記風に綴られ、どういう夕食をしたか、食後何をしたかなど詳細な記述と、それぞれの項目に対するコスト計算が書かれた請求書であった。そのことでM氏宅で何が起こったか聞いてないが、想像に難くない。
それにしてもタクシー運転手の話で、ユダヤ女性は別れ際がよいとの評価であったがそれには一つの前提条件があったのではなかろうか。つまり借り勘定を残していないということである。恋人なら折に触れてプレゼントをしたり、食事に連れ出すといった細かい配慮が必要であったのではなかろうか。日本人のM氏にはその点が欠けていた。他人ごとではないような気がした。